2009年5月15日金曜日

生者は死者の為に何が出来るか

タイトルへの解答はとても単純です。
それは「一切何も出来ない」です。

しかし、
もとよりキリスト者は自分の為、のみならず、他の総ての人の
「永遠の福祉」の為に生きるべきです。

所がそれが可能であるのはこの時空内に限られます。
具体的に言うと、私が「ジュンの永遠の福祉」の為に尽力できるのは
ジュンがその肉体に留まっている時間帯のみであったのです。

彼の霊魂が彼の体を去った瞬間、私がジュンの福祉の為にする
一切は完全に終結しなければなりません。これは厳粛な一つの
ルールです。即ち、その死の瞬間、ジュンの存在と彼のための福祉は、
完全に神の手の中に移された、のであり、最早そこには、
私が決して犯してはならない神の主権が存在するのです。

ですから 今時空に留まっている私が、あの世のジュンの
幸福の為に何かをしようとするのは、その神の主権を犯すことになり、
それははなはだ危険な思いと行為になります。

ご存知のように、カトリックや多くの宗教には、生きている人が死者に
影響を与えようとする様々な企てがあります。その思想の源は人の
生まれながら持っている底知れない宗教的な血の中に存在するものです。
それはまた生者が持つ、死者に対する深い自責の念等から、容易に生じて
来るものに違いありません。しかしそれは正に「人の事を思う思い」であり、
決して「神の事を思う思い」ではありません。(マタイ16の23)

のみならずここで、そのような思想は、聖書の真理とは真っ向対立する
何ものかである、とさえ言わなければなりません。人がもしも真剣に
そのような行為に手を染めようとするならば、必ず「聖霊ならぬ他の霊」の
深い影響をこうむることは避けられないでしょう。

聖書によれば、
ジュンは「死んで御使い達によってアブラハムの懐に
連れて行かれた」(ルカ16の22)
のであり、そこで彼の為に、神によって準備され、行われている
福祉は、肉体に留まるよりも「遥かにまさっているのです。」
(ピリピ1の23)
これはイエスとパウロの口から発せられた神の聖なる言葉です。もしも
「イエスやパウロが人を慰めるために、いい加減なことを言ったのでない」
とするならば、ジュンは今、地上に留まっている私などよりも、
遥かに心地よい環境におかれているのです。
それこそ、神からの確かな情報であり、真理です。

しかしながら、一体どこから私の思いへと飛来して来るのでしょう、
「今ジュンはとても気の毒な状況にあるに違いない」等とする、
何の根拠もない感覚に私は決して振り回されてはならないはずです。
ですから、私は今日も、力ある神の真理をして、
人の妄想にしっかりと対抗して頂かなければならないのです。

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