2009年2月21日土曜日

今度こそパソコンが直りました

柏の修理屋さんが私のpcに移植手術でもしたのかな、とにかく
直りましたよ。反応が格段に早くなり、パソコンがグンと若返った
感じです。少しお金はかかったけれど、まあよかったかなと
思っております。

明日、山です。今回は少し頑張って小屋の床と壁を貼る積もりです。
以前から壁は断然漆喰と決めていたのですが、あちこちの漆喰を観察して
見ると、漆喰や人気の珪藻土も思ったほどキレイでないなー、
と感じたのです。下手をすると塗り壁はうす汚くなってしまう恐れさえある。
それよりも杉の板を縦張りにしてペンキを塗る方が私好みに合うし、第一
工事が比較にならないほど楽なのです。それで今日、ホンダへ行って
日本では一番安い無垢の板・ノジ板を買って来ます。
リチギな日本の大工さんは、野地板など畳の下材などにしか使わない。
人目に触れる場所にこれを使うことは絶対に無いのではないか。
みっともないし?フシが至る所にある。乾燥が十分でないから後で
どうしても隙間が出来てしまう。しかし、野地板はとにかく安いのです。
山小屋だから隙間やフシももいい味になるだろうと私は踏んでいるのです。

アンクルウエート、やってますよ。最初は片方0.5キロでしたが
昨日から1キロにしました。片足1キロとなると実にズッシリ来ます。
計2キロなのですが、2キロ体重が増えた場合はこんな実感は絶対に
無いでしょう。この両者の感覚の差は著しい。これは当たり前と言えば
当たり前ですが、私達は体重が3キロ増えたとか何とかと平気で
言っている。しかしそれは大変なことですよ。なにしろ24時間3キロの
ウエートを身につけて動き回っていることになるのですから。その差は
いつの間にか3キロ増えるのと急に3キロ増えるのとの
違いなのでしょうが・・。とにかくことウエートに限らず
「いつの間にか」と言うのは恐ろしい。

2009年2月13日金曜日

今日下山します

パソコンについて:
先回の更新後、案の定やはり我がパソコンは完全にダウン、即ち
死に体状態になってしまいました。当然メールもだめでした。それで
私も全くあきらめてしまったのですが、今日になってこれから下山する
にさいして試しにオンにして見たところ、この通り何とか動くのです。

それでもやはりこれは時間の問題であることは明らかです。
出来れば、今日中に柏の修理屋さんに持って行きたいと思っております。
これは「或るディスクがあれば、治るかも知れない」と言う修理屋さんの
言葉にすがって最後の賭けをする、と言うことでしょうね。
と言うわけで、次回のブログ更新はいつになるのでしょうか。

さて、霊的な領域のことに一言触れるならば:
今主は明らかにある新しい段階へと進みつつあるように思われます。
当然神の業はキリストにおいて二千年前に完成しております。
今神が事を進められると言うのは、その完成された御業に基づき、
神の命を所有する稀有な人々(即ち真のキリスト者)を神が
取り扱われることに関してです。

今私達は、聖霊がキリスト者の「霊の中の直覚」を通してなされる
聖霊のデリケートな語りかけにとても敏感にならなければなりません。
(直覚とは神の油塗りが個人個人のキリスト者に教える場所です。)それが
「目を覚ましているように」と言う御言葉の意味であろうと思われます。

もしそうでなければ、私達は必ず乗り遅れるでしょう。(たとえ
「次の時代」には乗車するとしても)それはキリスト者を無感覚の
心地よい眠りに誘いこむ多くの強力な力が日に日に増し加わって
いるからです。それに抗するのは容易なことではありません。
それには神の大きな憐れみが(或いは切実な人の願いが)
どうしても必要とされることでしょう。

その主の業は必ずある隠れた方法で実行される筈です。
(ですから人の覚醒と探し出す意欲が必要なのです。)一世紀から今日に
至るまで「その主の業の流れ」は決して途絶えたことはありません。
それは黙示録を見る時、あの暗黒の時代においてさえ「勝利者」が存在して
いた事実を知れば明らかです。私達の深い感覚は「その流れが今日一体
どこにあるのか」を感知出来るほどまでに敏感でなければなりません。

今日この日、実行的に私達がもしも「あの龍」を足の下にしていなければ、
いずれキリスト者と言えども必ず実際的にあの龍の無慈悲で残酷な迫害に
遭遇するでしょう。そうであってほしいと言う思いがないではありませんが、
残念ながら?艱難の時代の前に全キリスト者がある日、自動的に
無意識的にのん気に空中に携え上げられる等ということは
決してあり得ません。(携挙には幾つかの段階があるからです)
これがキリスト者に対する新約聖書の明確な警告です。

私達が相手にしているのは神です。神は神です。

2009年2月11日水曜日

今朝のパソコン

昨晩は案の定、あの後 ダウン。
それで今朝も当然ダウン状態に違いないとは思いつつ、
オンにしてみると、英語の説明が何だかんだと出て来る。
その通り様子を見ていると何と立ち上がったのです。
しかしその間、たっぷりと1時間。これじゃーね。

と言うわけでまたダウンが来る前に急いでこれを書いているのです。
今日はカナからの変換等は正常です。でもいつダウンになるかは
一寸先も分かりません。これからメールへのレスをするつもりですが
中途半端になってしまう可能性が大です。その時はごめんなさい。

それにしても今回分かりましたよ。
ヤッパリ私にはこの小屋とパソコンは必要なのだ、と。
ですから、このパソコンがもし寿命だと分かったら、新しい
ノートパソコンを購入しようと思っております。


今朝のカリマン、エも言われない美しさです。
もう春ですねー、等と言っているとあした真冬が来たりして。

2009年2月10日火曜日

小屋に着きました

暖かい雨です。福島路、雪はどこにも殆ど見えません。
それでも道程最後の小屋へと至る「ロイヤルロード」は
しっかり雪の道でした。
さすが阿武隈の奥の細道カリマンです。

今回はパソコンを治すためのディスクを取りに
はるばる来たのです。
それでパソコン、この通り、何とか動くのですが、
その反応は極めて奇妙です。
それにしても、実家では完全ダウンなのに、ここでは少しは動く、
これもヘンなことです。と言うわけで、
せっかくいただいたメールへのレスも思うにまかせません。
これだけ書くのに30分はかかっているでしょう。
そろそろここでも完全ダウンなのかも知れませんよ。

帰るのは多分、あさってでしょうか。
訂正:14日下山にしました。


続けて大村さんの為にお祈り下さい。
その後のことは分かっておりません。
主は分かっております。

2009年2月9日月曜日

大村兄弟の事など

先ずはパソコンについて、
昨晩のブログとメールは全く正常でした。
しかし今朝一番にもう既に異常が現れ始めております。
これまでの経過から判断するに、この更新を最後に、またまた
機能停止に陥る可能性が大いにあります。

修理屋さんは言います、何とかと言うディスクがあれば
治るかもしれない、と。そういうわけで、そのディスクを
取りにわざわざ小屋に行くことも今考えております。

もし機能停止になれば連絡は同番号のファックスか
電話しかありません。どうぞよろしくお願い致します。


さて、
大村兄弟と御家族の為に続けて祈りたいと思います。
私のブログによくコメントを下さった「でもクリさん」が
実は大村兄弟です。薬関係の自営をなさっている方で、
今回の私の風邪についても適切なアドバイスをして下さったのです。

敵の一切の企ては2千年前に既に「最後のアダム」(イエス)の
肉において木(十字架)に釘付けられました。その事実を根拠に、
「この神の勝利の真理」が今、兄弟の病と大村家において
再現されますように!
ウソと小ざかしい知恵を用いて「神の選民」をさえ惑わそうとする
神の敵がこのたびの出来事によって大いに恥辱を受けますように!
だから今 キリストの御業の大岩のような堅固さと確実性に信頼し、
ただ神に賛美を捧げたいと思います。

2009年2月8日日曜日

21時54分、有季さんから

早速返信をいただきありがとうございました。
菅原様のメールを拝見し、大変心を強められ、
神様の臨在を覚えます。
私とは初めてメールさせていただいているのにもかかわらず、
主にある兄弟姉妹としてお交わりさせていただき
ありがとうございます。

夕方、病院へ行ったところ、
主に守られ、このような状態に置かれても
神様からの平安をいただいて病床についている父の姿を見て、
家族で通っている教会の方々が祈っていてくださることを
強く感じました。菅原様のブログに載せていただき、主にある
兄弟姉妹の方々にお祈りしていただけたら感謝です。

お言葉に甘えまして、父の病気の発生と現在の状況、および
問題を少しお話させていただきます。私は父とは違い、
医療従事者ではないので、話が分かりづらいと思いますが、
ご了承ください・・・

昨晩、胸の重苦しさと詰まる感じを訴え、血圧の急低下を伴った
ため、救急車を呼び、急性心筋梗塞として集中治療室での治療が
始まりました。狭窄していた血管は、心臓に栄養を送る太い血管であり、
そこにカテーテルでステントを挿入し、血管を拡張しました。

一命は取り留め、現在は容態が安定していますが、病院搬送までに
一時間強の時間を要したこと、また、大きな心筋梗塞であったことを
考慮すると、その間のダメージがどれほど心臓に影響を与えているのか
現在ではまだ分かっていないとのことです。
さらにもう一本狭窄している血管が発見され、そちらは、
昨晩行った治療の経過次第で、ステントを挿入して
血管を拡張する治療を行うとのことです。

病床では明るい声で、時に微笑んだ表情で会話をしておりましたが、
予断は赦さない状況にあります。主にある兄弟姉妹の方々に
お祈りしていただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
主にありて

大村 有季

緊急な祈りのお願い

今まで一度も会ったことさえないある兄弟(大村兄弟)と
今週お会いし、御交わりの機会を持つことになって
おりました。

ところが先ほど、メールを開いて見たら大変なことに
なっていたのです。そのメールは大村兄弟の娘さんからの
ものでした。以下は彼女の文面です。


菅原様
はじめまして。父の代わりに娘(有季)がメールを送付させて
いただいております。
昨日(7日)、父が急性心筋梗塞のために倒れ、一命は取り留めて
おりますが、現在集中治療室で治療を行っております。
そのため、菅原様にお会いすることになっておりましたが、
お約束が叶わぬ状況となってしまいました。
せっかくお時間を作っていただいたのに、大変申し訳ございません。
父も菅原様とお会いすることを大変楽しみにしておりました。
お祈りいただけますと感謝です。
取り急ぎご連絡させていただきました。
有季


有季様
了解しました。

大変なことになりましたね。
ゼヒ、祈らせていただきます。

私は何故か今
お父様は必ず、主の御こころの中にあることを
信じていることが不思議なのです。そして「神の」平安さえ覚えます。
一度もお会いしたこともないのにとても不思議です。
それはきっと私達(お父様、有季さん、私)の一つが
主イエスとの完全な一つの中にあるからでしょう。
それは神の一つです。

仮に神の敵が働らいたのだとしても
敵は神の御手の中の小さな存在に過ぎません。
キリストの復活は既に敵の死を粉砕したのです。

この度のお父様のことにおいて
ただ主の御業、復活の御業が現されますように、
と祈ります。

「私達の交わりは父、ならびに主イエスキリストとの交わりです。」
(Ⅰヨハネ1の3)


多くのキリスト者達にも祈っていただくべく、
このことをブログに載せたいと思いますが・・

パソコンがまたまた変です!

本当に変です。
最初に現れたあの不調現象がパソコンにまたまた出現し、遂に
昨日機能停止になってしまったのです。この現象これで三度目です。
奇妙なのは修理屋さんに持って行くと、それだけで完全に
治ってしまうことです。しかし、それで「ああよかった」と、家に
持って帰るとまた数日でおかしくなってしまうというわけなのです。

ついさきほど、柏の修理屋さんから、勝手に治ってしまった
パソコンで今これをあわてて書いております。
と言うわけなので、我がパソコン、またまた変になる可能性が
大いにあると覚悟しなければなりません。

それで次の作業は、いただいたコメントやメールに返事を
書くということなのですが、
「パソコンよ、お願いだから
またおかしくなるのはどうか、その後にしておくれ。」

2009年2月6日金曜日

パソコンが本当に治った

長らくメールもブログも書かなかったのは
以下の二つの理由からでした。
①パソコンが動かなかったこと。
柏の修理屋さんに治してもらって1/15の最新の更新をしたら 
何とその直後すぐまた動かなくなってしまったのです。
更新するべくログインしようとすると、変な警告が貼りつき、
それがどうしても自力では除去できなかった、と言うことでした。

しかし、数日前メール機能は回復しました。
しかしブログは駄目、それもいつ治るのかトンと検討がつかない状況
だったのです。(山に戻ってイモクボさんに
お願いしないと駄目かな等、と)

②もう一つの理由は1/16以後
風邪をこじらせ、つい数日前まで寝ていたことです。
(仕事もない気楽な身、この際無理せず慎重にと言うことで・・)
でも体はもう大丈夫です。

それにしても67歳、健康には注意しなければなりませんね、
今回つくずくそう思いました。
これからは風邪をひかないように細心の注意をすること
と(数年ぶりの風邪でした)寄る年波に抗して
「体力の増強に努めなきゃ」等と思わされたのであります。
(それであの三浦雄一郎氏のまねをして、おととい足首に巻く
ウエイトを柏の東急ハンズに注文して来ましたよ。果たして
首尾はいかに!)


そして遂にとうとう
今日の午後、龍ヶ崎のパソコントラブル解決会社に来てもらって
目出度くブログも再開の運びとなったと言うわけなのです。


このたびの病気等によって、私の内側にはっきりしたある変化が
あったように思われます。今後このブログにその変化はどんなふうに
現れるでしょうか。私にとってもそれは一つの楽しみです。

2009年1月15日木曜日

パソコンが治った

パソコンが不調になったのは10日くらい前でしょうか。
徐々に症状は悪化し、遂におととい?機能停止に至ったのです。
これは困った、あれやこれや考え、Kズ電気に行って見たら、
もう寿命だと思います、修理代は高いですよ、みたいなことまで言われ、
思いと感情が交差し、我が魂は散らかった部屋の様になってしまいました。
もうこれは買い替えは避けられないようだな、
ウーンそれにしても高い出費は困る、と悩みました。

その時「あ、この時だな」とフト気がついたのです。
そこで力を全部抜き「霊の中の聖霊よ、導いて下さい」と
心を主に向けることが出来たのです。
後は全部主に任せて直ちに昼寝。

そしたら何と昼寝のさい中に、ある電話があったのです。その結果、すぐに
「パソコン診療所」と言う修理屋さんに行くことになり、すぐに柏まで車を
飛ばしたのです。着くと修理屋のおじさん、何とかと言うディスクが無いと
難しいかな、と言ったので私「あ、それなら多分阿武隈の山にあるから」と
応えたところ、解決は次回山から降りる今から2、3週間後であろうと
言う結論にあい至ったのです。以上が昨日のこと。

そして今日のお昼ごろ何と、昨日のおじさんから、ニコニコ顔で
全部直りましたよ、と言う電話があったのです。おじさん
ビオス プログラムとかいうものを書き換えたのだそうで、
彼によると、こんなサービスはめったにありませんよ、と言うことでした。
出費は計2万円、パソコンは当分使えそうです。

2009年1月12日月曜日

キリスト者の道程と神の御心

キリスト者には明確な進むべき道があります。
それは大まかに言って
①御血による複数形の罪の清め(御血の認識)
②キリストの十字架によって「身体に関わる罪」に対して死ぬ経験に
入ること(ガラテヤ5章にあるような際立つ汚れた肉からの解放)
③魂に関わる「隠れた精神的な肉」の対処の為に自分の魂の命を死に
渡すべく日々自分の十字架を負うことです。

換言すれば②と③は
私の霊が「罪・この世」と「私」から解放され、唯聖霊にのみ
従うことが出来る段階です。それは即ち
私の魂は②「体の肉の奴隷状態」の中にいるのか、更に進んだ段階として
③私の霊は「魂の束縛」の中にいるのか、と言うことです。いずれの
場合にしろ、私の魂は速やかに私の体の肉の拘束から自由になる必要が
あるのであり、更に私の霊は私の魂の抑圧から解放される必要がある、
と言うことです。

そのようにしてもしも私が
②と③の段階をクリアしたとするならば、私の霊の中の聖霊の命は
私の「魂の機能」を支配下に置き、私の魂を経由して私の体から
この世にさえ流れ出て行くことでしょう。

これらは、イスラエルの民が出エジプトをし、「全く必要の無かった
荒野での長年のさまよい」を経て、ヨルダン川を渡ったことによって
象徴されるでしょう。当然、彼らの真の目的、イスラエルの民が
速やかに到達するべき場所はカナンのよき地でした。


このことをパウロはⅠコリントの2章で、肉的なキリスト者→霊的な
キリスト者の描写によって描いているようです。
(しかし実際には①肉的なキリスト者→②魂的なキリスト者→③霊的と
魂的が混ざったキリスト者→④霊的なキリスト者と言う段階がある
ことをも暗示しているかも知れません。)

Ⅰコリントで示されているもう一つのことは
①のキリスト者が④に至る時間は長くても数年を超えてはならない、
と言うことではないでしょうか。即ちコリントの信者が「真理を語る
ことば」の能力や「霊的な知識」に卓越していること、いろいろな
「神の賜に欠けることが無かった」(1の5、7)にもかかわらずに 
未だに①の肉的な状態(赤ちゃん状態)に留まっていることに
あきれ果てているパウロがこの書に明示されているのです。(汚れた
罪の横行するコリントに住む彼らは、その影響から脱することが出来ず、
またキリストと真理に対して根本的な誤解があったと思われます。)


先ずキリスト者は、自分は一体どの段階にいるのかを真に神によって
示していただく必要があるのであり、自分勝手にスキップすることなく、
順を追って確実に前進する必要がある筈です。

そのようにして、キリスト者が速やかに到達するべき段階は④です。
なぜならこの段階に至って初めてキリスト者は神の為に、神の敵と戦う
ことが可能となるからです。(赤ちゃんや幼子は戦えない)
霊的なキリスト者とは毎日、歓喜に溢れてばかりいるキリスト者
などでは決してなく、神の目的の為に見えざる神の敵・悪霊と格闘する
人々であるようです(エペソ6章)。それはカナンの良き地に入った神の
民の生活を見ると容易に分かります。彼らの生活は荒野での敵に勝る
更に多くの敵達との激しい戦いの日々でした。

しかし良き地(霊の中)における霊的なキリスト者の激しい戦いの
目的は更にその向こうにあったのです。そこにこそ、
この時代における究極的な神の目的、神の御心が存在するのです。


私のパソコンがとても不調です。今日は調子がいいので慌てて
これを書いています。しかしいつまた動かなくなるか分かりません。

2009年1月5日月曜日

K兄弟と「でもクリさん」へ

K兄弟:
今日、Aさんとの交わりの中で、Organic Churchという話題が出ました。
Organicとは有機栽培のことで、今までの牧師 ワンマンショー型の教会
ではなく、一粒の種の中に必要なすべての 栄養分が入っていて、それを
ポンと蒔くと自然に芽が出て育ってい くという考えに基づいた教会
のことを言うのだそうです。いまアメリカだけでなく世界各地で
そのような動きが出てきており、僕自身も主がこのことをなされて
いるのだなと感じさせられています。

Sugar:
オーガニックにはまた「有機的な」と言う意味もあって、
生命的結合を連想させられますよね。確かに聖書で言うエクレシアとは
そういうものでしょう。ある一定の時間と場所を区切ってショウを催す
と言うのではなく、24時間の日常の中で自分と隣人の命を育てる、
そんな中にこそ「教会」の実際がなければなりません。
しかしその「世界各地の動き」の実態はどんなものなのでしょうか。
情報があったらお知らせください。


でもクリさん、ホンとに有難う。
何だかほんわりと心が暖められたのです。

私はとても元気です。
それどころか、今前途を見据える時、そこにある確かな希望に
とてもワクワクしている、とさえ言えると思います。

ただこの様な形でこれまでとても気楽に意見を発表して来た自分を
今一度主に問い直している、と言っていいのかも知れません。

そのワクワクと「主に対するある畏れ」の内容を話し出すならば、
時間がいくらあっても足らないことでしょう。しかしいずれにしろ、これは
「よいこと」それも相当によいことです。あまりよいことなので
今はどうしても書けない、と言った所でしょうか。
一度お会いしてゆっくりお話が出来るといいと思います。

2008年12月21日日曜日

山に来ております

今朝(けさ)の山:
春のような暖かい陽光がさんさんと降り注ぎ、
正に気持ちのよい阿武隈の師走です。

今回19日に、一緒に山に入ったケンが、昨晩から今朝にかけて
精神的に「悪い底を打った」という感じがすると、今朝一番に
嬉しそうに私に報告してくれました。これは、或いはとてもよい
キザシなのかも知れないと私も大層喜んでおります。
しかし実は私自身も、これから一つのコーナーを(いつの日か!)
首尾よく曲がり切れるといいな、と真面目に思わせられているのです。


キリスト者はいつまでも肉と罪(そして「この世」)の奴隷状態に
あるべきではありません。即ちそれは、私達の魂が肉と罪から
自由にされると言うことですね。
 
しかし、更に何と「私達の霊」は「私達の魂」からも自由にされる
必要があるのです。なぜなら、もしそうでないと「私達において」
キリストにある神はこの地上で大きな制限を受けることになるから
です。そしてキリスト者も本当を言って真の自由を享受すること等
絶対にあり得ないだろうと私は心底思っているのです。


しかし、この問題は実は極めて見えにくいのです。
実はこの数日、この問題が改めて私の前に浮上し、と言うか、
私自身にとって正直この問題があまりに大きく解決不可能にさえ見え、
それに全く打ちのめされていた、と言った方が正確かも知れません。

キリストの十字架は旧創造の一切を解決しました。しかし、
私達はそのキリストにある勝利の事実を今この時空において証明し、
神への信仰と従順によって、今この私達の環境において追体験する
必要があるのです。(それはおもに、神の敵の故です。)

しかし、そのあまたの旧創造に含まれる事項の内、この「魂の命の問題」
(魂の性質や機能ではなく)ほど無視されている重大な問題はありません。
何故ならそれはとても見えにくいからです。見えていないのだから、
人々にとってそれが問題視されることなどある筈がありません。私は
そのようなコメントや声をこの数年、或いは数十年間どこからも殆ど聞いた
ことさえ無いのです。だからなおさら、この問題の深刻さ、
困難さがあると言えるでしょう。

26日に下山する予定です。
話が中途半端ですみません。

2008年12月17日水曜日

霊融合

聞く所によると、
ある物質の分裂(1→2の原則)は相当のエネルギーを発散するが、
汚染等の恐ろしい弊害を持つのに対して、物質の融合(2→1の原則)
にはその恐れは無く、何と融合から生ずるエネルギーの実用化には、
或いは人類の未来の希望がかかっているかも知れないとある識者達
(あのルーク氏も)は考えておられるようです。


さて神の「命の息」が人の体に吹き込まれた時に人は生きた魂となった、
と創世記2の7は告げています。従ってその命の息こそが人の霊であると
考えられます。(しかし、この段階においては人は神の命そのものを
所有したわけではありません。)

しかし後に、キリストは「命を与える霊」となられ(Ⅰコリント15の45)
弟子たちに「息を吹きかけて・・聖霊を受けよ」と言われました。
(ヨハネ20の22)従ってここに、人の霊の中に永遠の命である
キリストの霊、聖霊が入り込み二つの霊が一つに融合したと言う驚くべき
事実を見るのです。このことをパウロも「主と交われば、一つの霊となる」
(Ⅰコリント6の17)と断言しております。

従ってキリスト者とは「少なくとも霊の部分においては何と
神と一つになっている存在」であると言えるのです。
これこそ、正に途方も無い主張ではないでしょうか。しかしながら聖書を
神の言葉であると信じる人であるならば、このとてつもなく見える言葉
でさえも信仰によって受け入れることが出来る筈です。(その完全な知的
理解は不可能でしょう。しかし、信仰の後にその実感を
体験することは可能なのです。)
さて、もしもこれが事実であるとするならば、
更に幾つかのことが言い得るでしょう。

・今やキリスト者の霊は復活のキリストの霊と一つである故に、
そこは完全に「聖域」(至聖所)であり、神の敵が
入り込むことは全く不可能であることです。
ただしキリスト者の霊に対してさえ、外部からある影響を間接的に
与える可能性は排除できないかも知れません。しかしこと人の「魂や体」
に対しては悪しき霊は直接的な関わりを持つことが可能です。
福音書はまた、悪しき諸霊が動物や物質(水中など)に入り込む
と言う事例をも見せています。

・二つの霊が融合して、一つになった霊には膨大な(実は無限の)
エネルギーと能力が秘められております。
しかしながらそのエネルギーの表れは決して爆発的なものではなく、
生命現象的に現れます。従ってそのエネルギー、命の表現には必ず
美しさ、他のものとの調和、静けさ等が伴うのです。それはあたかも、
核分裂のような破壊的凄まじいエネルギーによって焦土と化した大地も
いつの間にか、静かな生命のエネルギーの多種多様な出現によって
覆われてしまうようなものでしょうか。

・最後に「一人一人のキリスト者がこの上なく重要である」ことが
指摘されます。なぜならば上記のようなエネルギーを内に秘めているのは、
一人一人総てのキリスト者であるからです。そこには例外はありません。
従って「一人の有能で魅力的な人物の周りに多くの人々を付着させよう
とする」キリスト教に普通に見られる図式や動向に対して、
聖霊が同意する等と言うことは決してあり得ません。何故なら、
そこには一人一人のキリスト者が持っている天的で聖なる命、エネルギーを
抹殺してしまおうとする敵の意図がアリアリと明白であるからです。

2008年12月16日火曜日

でもクリさんへ

1ヨハネ1:7の「・・・神が光の中におられるように、
私たちも光の中を歩んでいるなら・・・」私たちが光の
中を歩んでいる状態は、罪の中を歩んでいない状態であると
考えていたのです。このへんのところがよくわかりません。
その状態は罪のない状態だと思ったのです。
このあたりのことが今でもすっきりしません。


「私達が光の中を歩んでいる状態は、罪の中を歩んでいない状態である」
と言うでもクリさんの御指摘は全くその通りでしょう。だからもしも仮に
私達が24時間、完全に光りの中にい続けることが出来るならば、私達は
複数形の罪一個でさえ犯す可能性はないことになります。

にもかかわらず、仮に私達がそういう状態であったとしても、それは、
罪の根が完全に根こそぎにされている、と言う意味ではありません。
罪の根(the Sin)はやはりそこにあるのです。

しかし、一つの法則であるthe Sinと「魂の機能やからだ」を
「仲立ちする肉」が今や十字架上で除去されてしまったので、
the Sinの力は「魂の機能や体」にはもはや届かず、
the Sinは今や、言わば職場を失った状態と言えるでしょう。
(その前の状態:大文字の罪→肉→魂の機能とからだ)

この状態をパウロは次のように描写しています。
「私達の古い人(肉)がキリストと共に十字架に付けられたのは、
罪のからだが滅びて私達(魂の機能とからだ)がもはやこれからは、
罪の奴隷でなくなるためである。」(ローマ6の6)

この場合の「罪のからだが滅びて」の「滅びて」と言うのは原文では
「不能、失業状態にされて」と言う意味だそうです。
今やからだや魂の機能は「罪に対しては」不能状態にされたのです。


ここで私達は更にハレルヤと叫ばなければなりません。
と言うのは、いまや私達の内側には、私達が新しく生きる為の
神の力「キリストイエスにある命の霊の法則」(ローマ8の2)が
存在しているからです。

もしも私達がその法則の力を真に信じ、その力に自分を委ねることが
出来るならば、現実にその法則が私達の魂とからだを支配して下さる
素晴らしい状況を、私達はそのかたわらに立って見ていることが
出来る筈です。今私達はこの法則の力を現実的に経験し、
それを十分に楽しむ必要があるのです。

「こう言うわけで、今はキリストイエスにある者が罪に定められることは
決してありません。なぜなら、キリストイエスにある、命の霊の法則が、
罪と死の法則からあなたを解放したからです。」
(ローマ8の1、2)

2008年12月14日日曜日

「本当の私」に留まる

A兄弟へ:
「私が後悔していること・・・」

このあなたの言われる「失敗」は御血によって既に
清くされています。神が既にそうされたのだから、
あなたがこだわるのは変と言うものです。

大切なのは今これからです。
さて事実「Aさんの総て一切、あなたそのもの」は
十字架に釘付けられ、今墓の中です。

そして、本当のあなた「A兄弟」は復活し、今天に座し、
総ての暗闇の勢力を足の下にして安息しています。
これは、神御自身がそのように見ておられると言う
「本当のあなたの姿」です。

何故こんな「とてつもないこと」を私は言うのでしょう。
それは:「どうにもならない古いAさん」を神が
十字架に付けた時に、イエスキリストがそこにいたからです!
従ってその時古いあなたはキリストと共に死去したのです。
これは、あのキリストの十字架において
全能の神が達成された永遠の事実です。

しかしあなたは引き続き、キリストと一つの中にいるので、
墓の中からキリストと共に復活し、何と今は天に座しているのです。
これこそが確かに神が見ておられる所の「本当のあなた」です。

だから今 あなたがするべきことは:
①一切の「ねばならない」を無視し!
決して何もしないこと、動かないことです。そして
②神の目から見える「現実のあなたが今どうであるか」即ち
キリストと一つである「あなたA兄弟の真の状態」に安心して留まり、
その勝利の陣地に堅く立ち、そこからおびき出されないことです。

しかし
敵は必ず「墓の中の古いAさん」を黄泉から引っぱり出して来て、
それをあなたに対し実にアリアリと見せようとすることでしょう。
しかしそれは絶対的にウソです。
だからそんな場合には「今の本当のあなたの姿」を、神の真理の
立ち場に立ち、何度でも「そのウソつき」の顔面に
「声に出して」たたきつけてやるべきです:
「私は今、キリストと共に復活の中にあって天に座している!
それをお前はチャンと知っているくせに、
何を言うかこのウソつきめ!」と。
それこそが、あなたがなし得る最上の「奉仕」・仕事である、
と私は思っています。


要は、「何を信じるのか」と言う問題です。あなたは
自分の推論と感覚が「自分の永遠」を委ねることができる程に
信頼に足るものであると本当に思われるのでしょうか。

それとも、物質界を超えた極めて高次元に位置する神の真理を、それが
神とイエスの言葉であると言う理由だけで受け入れようとするのでしょうか。
神の言葉であるが故に、完全に理解不可能であることでさえ
受け入れること、それを信仰と言うのです。


そのようにして私達が信じるならば、それに引き続き:
今日におけるキリスト御自身の「あなたの時空内での御業」を
あなたは日々かたわらに立って「見物」することになるのです。

「キリスト」と言う意味はごく平たく言うと「仕事人」です。そして、
実にあのイエスのみがキリストです。ですから当然、あなたはキリスト
ではありまりません。従ってあなたには仕事をする必要など全くない
のです。あなたのするべき事は只、あの唯一人の仕事人・聖霊
として働かれるキリストの仕事ぶりを日々楽しむことだけなのです。

2008年12月12日金曜日

肉と罪(SIN) 2

1.
肉の中に罪(Sin)があるとしたら、肉からの開放は、Sinからも
解放されるということにならないでしょうか?私は、このあたりの
ことがよく分からないのです。
2.
(1ヨハネ1:8)と(1ヨハネ1:7)の関係も
釈然としないのです。


二つの疑問の内 
1.については更に検討しなければならないでしょう。
やはり難しい問題です。それは後日に回しましょう。
(しかし、これからもこれらの大切な問題について、お互いに
交わりあうことは素晴らしいことだと思います。)

ただ、
神は「あなたの罪を根絶するように」とはどこにも言われていないので、
実際生活において私達は「肉を対処するだけでよい」のではない
でしょうか。しかしそれだけでも実際にはたやすい事ではありません。
(罪と肉の問題の他に「この世」や「己」の対処の問題があります!)


2.は簡単です。それは いわゆる複数形の罪の問題であり、sins は
キリストの御血によって総て洗い清められます。「総ての罪」の中には
大小様ざまな罪、赦されそうな罪、赦されそうに思えない罪、覚えている罪、
無意識の罪、過去の罪、明日犯す罪、その他総てのありとあらゆる罪が
含まれますのでその告白をし、神の言葉を信じるならば、複数形の罪に
関する限り直ちに平安が得られるはずです。

しかしそれは、私がいつの日か、複数形の罪を一切犯さなくなる
と言う意味では全くないわけで、そこで複数形の罪の根源である
私(肉、古き人)の死が必要となるわけです。
御血によってsins が清められ、十字架上での「私の死」によって、
私の肉が取り除かれるのです。

実際上の罪の対処に関して、聖書で取り扱っているのはこの分野まで、
ではないでしょうか。罪の抜本的な根絶はこの時代にはあり得ないと
私は思っています。それは次の時代を待ちましょう。

しかし
「信仰による先取り」によって、千年期や永遠における勝利や完全を
この時代の中でさえ「前味わいする」と言うことが聖書にはあります。
何しろ聖書の真理は時間を超えた永遠の中にあるのですから。
前味わい、これもこの時代における
キリスト者の大いなる楽しみの一つです。

肉と罪(SIN)

*でもクリさんへ*

罪(Sin)は肉の中にあります。
「それを行っているのは、最早私ではなく、私の内に住みついている
罪なのです。私は、私の内、即ち私の肉の内に善が住んでいない
ことを知っている。」(ローマ7の17)

「私の内に住み着いている罪」、
この場合の「私」は、その後の記述から分かるように「肉」です。
このことはローマ3の20、ヨハネ3の6、更にガラテヤ2の16
「なぜなら律法の行いによって義と認められる肉(原文)
は一人もいない。」などからも明らかでしょう。


肉は、罪深いものへのどうにもならない傾向、傾き、即ち人の根源的な
「罪の性質」です。そしてその肉の中に単数形の「あの罪」が宿って
いるのです。罪とは「ある不思議な力」であると言えるでしょう。
それはこうです:罪とは肉を動機付け、呼び覚まし、掻き立て、遂には
肉の欲を全解放するように強いるある奥深い力です。

その結果、私達は多くの罪(複数形の罪)を犯します。これに
抵抗する「すべ」を人は一切持っていません。
解決はただキリストにおける十字架上の肉の「割礼」にあるのです。
結論として、肉は罪へ傾く傾向そのものですが、それを発動させる
強力な力が肉の中に住んでおり、それが罪(the Sin)である、
と言えるのではないでしょうか。


しかし、以上のような知識は、ただ知識として持っているだけでは何の
役にも立ちません。必要なのは実際生活上での「魂の、肉からの解放」
です。聖書はこの時代における「罪の根絶」について語っているとは
思えません。何故ならヨハネは「罪が無いと言うなら・・真理は
私たちの内にありません。」と言っているからです。(Ⅰヨハネ1の8)
しかし、肉からの解放については聖書は何度も明確に語っています。
それ故、もし神の言葉に偽りがないのであれば、キリスト者はキリストの
達成とその命によって、現実に肉から解放され得る筈です。

ですから私達は自分の生活の中でその勝利を求め、その為に神から啓示を
与えられ、キリストが十字架上で達成された事実に安息することにより、
実際的に肉からの解放、即ち「罪に対して死んだ私達」(ローマ6の2)
を経験するべきです。


以上がキリスト者の勝利の為の消極面です。私達は積極面においても、
更にキリスト者の霊の中にある「勝利する命」「命の御霊の法則の力」
をも同時に知り、経験することが出来るのです。

2008年12月10日水曜日

魂の機能と魂の性質・肉

魂の機能(魂の器官)は当然
魂の性質、魂の強い傾き、魂の強烈な傾向、即ち肉とは異なります。
肉は神が創造された人の中には無かったものです。肉はある時に
人の体を通して魂の領域にまで進入し、人に根本的な「傾き」、罪深い
モノへ傾く強い傾向を与えてしまいました。(ここに人類は大問題を
抱えることとなったのです。)

本来キリスト者とは神の性質・傾き(神の徳)を「神の命、
エネルギー」によってのみ表現するべき存在です。即ち私達は
神の性質を神の命によって表現するべきです。その際、神の命・
神の力は当然「キリスト者一人一人の個性的な魂の諸機能」を経由する
わけです。(即ち魂の機能・器官を神の命・力が発動させると言うこと)

神は人の魂の機能までも十字架につけることはなさいません。
除去されるべきは外部から進入した肉です。

人の魂に存在する諸々の徳、知情意などの機能・器官
(その機能には個性がある)を神は永遠に守られます。
なぜならそれらこそ、神のイメージ、神のかたち
(創世記1の16、17)であるからです。

ですから、A兄弟は永遠においてさえやはりA兄弟であり、千年期や
永遠においてAさんが突然Bさんになったり、別の生き物になったり
と言う様な奇妙なことを神が決してなさいません。(それは
人の宗教の発想です。)

なぜなら神は一つ(それはキリストにある)の中の多様性を
重んじられるからであり、それによって神の偉大さを展覧なさりたい
からです。一項目「神の知恵」においてさえ、その多種多様な現れを
神はエクレシアに対して望んでおられます。(エペソ3の10)

取り除かれるべき要素は「魂に強烈な影響を与える肉」です。肉とは
人の罪深い性質・傾き・強い傾向です。ですから古き人である本来の
私はどうしても罪に傾くのです。肉はあたかも私になってしまった
かのようです。(肉から生まれるのは肉であり、古き人、古き私は
肉であるからです)しかし、ハレルヤ、私達の肉(傾き)は
既に十字架に釘付けられてしまったのです。「私達の古い人が
キリストと共に十字架に付けられたのは、罪のからだが滅びて私達が
もはやこれからは、罪の奴隷でなくなるためである。」
(ローマ6の6)

従って今まだ「罪の根」はそこに存在しているとしても、罪は
肉の除去により人の魂の機能にまで達することが出来ません。
私の中の肉・古き人は罪に対して死んだからです。


私達はこの「魂の、肉からの解放」を私の生活において現実的に
経験するべきであり、来る日も来る日も肉の支配下で生活する
べきではありません。もしもキリスト者が繰り返し、汚れた肉の
奴隷状態にいるとすれば、それはむしろ不自然です。魂が肉から
解放されること、それは決して私たちの手の届かない所にある
のではありません。何故ならば、
それはキリストによって既に解決済みであるからです。

しかし、これらの神の真理に対する信頼がなければ、その事実が
「あなたの現実」に降りて来ることはあり得ません。何故なら
真理はただキリストの中にあるからです。即ちそれはキリストの
復活の中にある永遠の領域にのみ存在するものであるからです。
従って人の側から見るとき、総ては信仰にかかっている、
と言えるでしょう。

2008年12月9日火曜日

二つのこと

主は必要に応じ、当然多人数のキリスト者の集まりを与えて
下さいます。この多人数の集まりは相互間の重要な「情報」の交換の場
として用いられます、スポーツの試合におけるミーティングの様に。
しかしエクレシアにおける、主要な敵との戦いの前線と神の働きの基点は
むしろ一人、或いは二、三人にあるでしょう。(マタイ18章等)

なぜならキリスト者が一人、二三人でいる状況は、人の生活にとても近い
からです。神は人の命、生活、人生即ち人のLIFEを愛されます。
しかし神の敵も人のライフをめぐって昼夜働らいているのです。

*ロゴスとレーマについて*
どちらかと言うと、多くの集まりで語られたロゴスは一人、或いは
二三人の場において「レーマ化」することが多いようです。ロゴスとは
恒常的な神のことばです。しかし白黒の新旧約聖書の神のことば・ロゴスを
ただ所有しているだけであるならば、それは死んだ文字に過ぎません。
それはそのままでは何の役にも立たないだけでなく、もしも私が他人に
対してそれをナマのままで用いるならば何と私はその人を殺すことになる
でしょう。(Ⅱコリント3の6、この場合パウロが言った文字とは
明らかに旧約聖書の文字です)

しかしある時、あなたが記憶していたロゴスがあなたの内でレーマ化
する時即ち神がそのロゴスを用いてあなたに直接に語りかけられる時
神のことばが初めてあなたに対して効力を発揮することになるのです。
記憶されたロゴスが即時的に、その時の状況に応じて神からの生きた
言葉としてあなたを照らし、あなたの霊に直接触れ、あなたを生かす
ならば次に、そのことばがレーマとしてあなたを通して人々に対し真に
役に立つものとなるのです。

なぜならエクレシアとは「今日の天地にある生けるキリスト」が私達と
言う「人間性を通して」表現されたものであるからです。今日の
キリストが命のない何物とも、即ち生きていないキリスト以外の
どんなモノとも融合することなど決してないからです。


ここに一つの危険性があります。
それは人が「誤謬なき正当なロゴスを振り回す」ことです。例えば、
大音量の拡声器で人の滅亡について伝える無機質な声を人々に聞かせ、
説得しようとすることなどです。これは殆ど効果がありません。なぜなら、
ロゴスが人の霊と人の生活を経由することによってレーマ化していない
からです。多くの場合それはむしろ人々を神のレーマ(神からの直接的な
語りかけ)から遠ざける働きをするだけでしょう。

私たちにも危険性があります。
それは私達が例えば、ある「霊的な人」のことばを取ってそれを、
ナマのまま他人の説得に用いようとすること等です。そのことばが、
その霊的な人の口から発せられた時はレーマであったとしても、それを私が
「権威ある霊的な人のことばとして」人の説得に用いようとするとき、
殆どの場合それは「正統で無機質なロゴス」に過ぎません。そのような
方法でそれらの「正しいことば」を用いる私は正に「トラの威を借りる狐」
のようなものです。私達はキリストの十字架によって自分の中に住む
「狐」を日々対処しなければならないのです。(雅歌2の15)

このように私達には「霊的なことば」を「新しい律法」に変化させる
危険性さえあるのです。それは一つの「宗教」を立ち上げるのに役に立つ
だけでしょう。そういう時、そこに働くのは宗教的権威です。ですから、
その宗教的な権威の力の故に私が発したロゴスは或いは相手を
平伏させることに成功するかも知れません。しかしその平伏は決して
「今日の天地にある生きたキリスト」とは相容れないものです。

むしろそれは確実に神の敵に用いられるでしょう。神の敵もロゴスを
用いるからです。(しかし彼は決してレーマに触れることは出来ません。
なぜならレーマには天の成分、十字架と復活の成分が
含まれているからです。)


たとえそれが
「聖書通りの誤謬のないロゴス」であったとしても
私達がそれを用いる時に「必ず経過しなければ
ならないもの」が幾つかあります。
それは「私の魂の機能と体」即ち
私と言う個性的な人間性であり、そしてまた
日々の「古き私」を死に至らしめる十字架です。

私達は神のことばを「新しい私」を通して語らねばなりません。その時 
神のことばは他人からの借り物ではなく「人間であるイエスとあなたの
ことば」となるでしょう。神のことばは今日「十字架を経られたキリストと
あなたの一つ」を通して語り出されなければならないのです。何故なら
今の時代、神は、天使の口によってではなく、原則として
「キリスト・者、キリスト・人」を通してのみ語り出されるように
定めておられるからです。

あるメールから(14)

先日の土曜日の集会は初めてお会いする方達もおられたせいか、
集会の印象がいまいち自分の中ではっきりしていませんでした。

ところが、今夜 我が家ではなぜか、土曜日の集会の話になり
参加されたお一人お一人の名前を思い出したり
どんな話をされたか、とか、とりあげられた御言葉とか
頂いたプリントの内容、とか 思い出しながら
二人で話していました。

そうしましたら、あの時には分からなかった事や
気づかなかった事を主が明らかに語ってくださり
なんと豊かに主が流れていて下さったことかと
一日おいてやって実感がわいてきたと言いますか
消化されてきた感じです。

やはりミーティングには肢体分の豊かさがありますね。
その豊かさに与(あずか)れましたことを感謝します。

また、御言葉をロゴスでなくレーマとすると言う事は
御言葉を自分の経験にするということでしょうか!?
朝読んだ御言葉もお昼には忘れてしまっていますが
いつかレーマとなることを願い、与り続けたいと思います。
このたび、兄弟姉妹と共に主に与れましたこと、感謝します。

2008年12月7日日曜日

あるメールから(13)

昨日の集まりで、私も一言、話させていただいたのですが、
どうも私は話し下手で、後で言い足りないなーといつも思うのです。
そういうわけで、昨日の話に補足させて下さい。

以前行っていた「教会」の姉妹たちが集まると必ず世間話しになって
信仰の面を語り合うことができなくて、そんな状態が続くうちに、
私が「神様に直接訴える」という事を実行するようになりました。
それをしていたある時ウオッチマン ニーの「神を知る道」と言う本を
読んでいたら「神に直接話す、神に直接訴える」ということが書いて
ありました。その時「ああ、これは私が今やっていることだ」と分かり、
私はとても喜びました。とはいえ、それはやむを得ず、仕方なしに
やっていたことでした。しかしとにかくその時以来私は、神様に直接
向かうようになったのです。

それからは、自分の問題を直接神様に向かってあーだのこーだのとやる
ようになり「総ての解決は内住のキリストにある」と思うように
なったのです。そして、クリスチャンとして生きてゆく土台は、自分
ではなく「あの内住のお方」なのだと確信し、その結果それまで
行っていた「教会」を去る決心がついたのです。

今は、真に神様が願われている教会・エクレシアの姿や本当の交わり
について、そしてまた内住のお方によって生きることとは何かを
少しずつ教えられて幸を得ているのです。


もう一つ、クリスチャンはよく愛を語り、愛のある行為とは何か
と言うことについてよく話しますが、それでは一体「最も」愛のある
行為とは何か、についても教えられたように思います。

ヨハネ 15:13に 人がその友のために「いのちを捨てる」という、 
これよりも大きな愛はだれも持っていません とあり
Ⅱコリ 4:12には 死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたの
うちに働くのです、とあります。

私が自分に死ぬ、即ち「自分の魂の命」を死に渡すことの結果として
初めて、復活のキリストの命が私の友の内側にも到達するのである
と言うこと、そしてそのような愛の行為・即ち自分の魂の命を死に渡すこと
以上の愛と言うものは、他にはあり得ないのだと思うようになっています。
それは私の色々な親切な行為より、はるかに勝るものではなかろうか
と理解するようになったのです。
ということで、これからもよろしくお願いします。

★原文は公開用のものではありません。それで申し訳ないのですが、
出来るだけ本人の意を汲んで?私が補充したところがあります。
御了承ください。

2008年12月6日土曜日

ある会話

Dさん:
このたび経験したことと言うのは・・・
キリストの中では(飛行船の中では)もし
それが「人の発案」ではなく「主の発案」から始められた
ことならば、部分的な祝福ではなく、まったき祝福となり
すべての事において主のバックアップを見るのです、という
ある兄弟の言葉の体験であったと思うのです。

「主の発案」は人が介入できない事柄のなかへ主が介入
され、事が主のなかで自然に運ばれて行く事。
それを見ていく事ほど楽しく胸ときめく事はありません。

sugar:
飛行船、いいですねー。
何かみたいにキンキンする爆音もなく汗も流さず、
高き所にいて地の景色を見下ろし、
スガスガしい天の空気を沢山吸いながら。

そんな風にして、
彼の運転に総てを委ね、
ただ運ばれていただけとはね

Dさん:
はい、夢のようでした。(*^_^*)
でも、今思い出したのですが今回の旅立ち?の前にアチコチの
兄弟姉妹たちが「私たちって何もやらなくっていいんだよねエ~」
とささやいているのを小耳にして出かけましたから、これもまた
予言的なささやきだったかなって驚いています。 
あの不思議がいろいろなところまだまだ隠れていそうです。

2008年12月3日水曜日

マルシアからです

お久しぶりです。お元気ですか?
私はやっと月曜日から産休に入り、赤ちゃんを迎える準備をし始めた
ところです。予定日通りには行かないと思うので、今日は早速入院の
荷造りをし、明日は退院時の赤ちゃんの服を揃えれば、もういつ陣痛が
来ても大丈夫です(^-^)。

一時はお腹が張り過ぎて早産の可能性があり、産休の予定より早く休ま
なくてはならないとの心配がありましたが、もっと細かい検査して見たら
正常範囲内だと分かり、予定通りに産休に入りました。

しかしお腹が大きくなり、ちょっとした動作ですぐ疲れてしまいます。
仕事している時、あまり眠れないことも悩みでした。産休に入って、
家でのんびりできるので、夜は眠れなくても、いつでもお昼ねできるから
よかったです。眠れないことや眠りが浅いことは、これから子どもの世話を
するための、一つの体の準備と聞きました。「なるほどだね」と思いました。

仕事をしていたおかげで、あまり体重が増えず、脚がむくんだりすることも
ありませんでした。もちろん仕事をすること自体は毎日疲れましたけど・・・・

現在私の体重は5kg弱しか増えなかったけど、休みに入ったことで
これから増えるかもしれません。少なくても、2kg以上は増やしたくない
と思います。全体の体重が増えなくても赤ちゃんが元気に成長していれば
問題ない、と医者から聞きました。最近の妊婦は太り過ぎると
注意されるそうです。

赤ちゃんは元気に相変わらずよく動いています。性別が分かるための
「大事なところ」がこれまで何回も隠れていたけれど、8ヶ月目に入って
やっと見せてくれました。医師が間違えてなければ女の子です。2回も見て
頂いたので、大丈夫だと思います。

最後の検診では赤ちゃんは2400gまで成長していました。今のところは
逆子ではないことが分かりました。よく動く子なので、これからぐるっと
回って逆子にならないで欲しいなと願っています。37週目まで逆子に
ならなければ自然出産ができるとのことです。現在34週目に入った
ばかりです。

出産後、皆様にその報告をしたいと思います。最後まで、
出産という大きな仕事を問題なくやり遂げられるように願っています。
では、(^-^)

PS:
この子を連れて、また山小屋に行ける日を楽しみにしています。
またね(^^)

sugar:
本人が「日本語の変な所は直して下さい」とのことでしたが、
それはごく僅かでした。
日本語が全く分からなかったブラジル生まれの小さな娘が、
総て独力で高校、大学を経て、遂にここまでに至ったこと、
ホンとに偉いと思います。
無事な出産と、赤ちゃんを連れてまた山に
来てくれることを心から祈るばかりです。

明日、下山します。


その後のマルシアからのメールです↓
「いまだに日本語に自信がありません。
直して頂き、ありがとうございました。
新しい鍋が届き、よかったですね。私達が栄養の
あるものを作りに山に行かなくても、ちゃんと作っている
ようで、安心しました。下山なさるなら松戸にもお立ち寄り下さい。
大きなお腹は期間限定ですから、今しか見られませんよ。
(^-^)では。」

希望・神は人の霊を守られる

宇宙には種々の霊が存在しますが、人の霊は特別です。
それは何と神の命の息でした。

しかし、それは神御自身ではありません。即ち霊としての神
ではないのです。しかし人の霊は、間もなく「永遠の命」としての
神を迎えるための存在ではあったのです。

従って当初の人の霊は当然ながら、神によって純粋に守られた
のです。今日の人々の霊でさえ、神はそれを守っておられると私は
信じています。だからどんな人にでも、まだ希望があるのです。
その魂(感情と思いと意志)と体において汚れ果てた「悪人」の
霊(良心を含む)でさえ、彼の霊だけは「ある意味で」聖域です。
(ですから私達は福音を伝える時、自分の霊を用いて、その人の
思いや感情に対して、と言うよりも、その人の霊に向かって
彼の霊に触れに行く必要があるのではないでしょうか。)

本論に戻ります。しかしながら、ご存知のように 人の霊は
アダムにおいて死んでしまったのです。この場合の死とは、その
機能の停止です。即ちそれは「神との交流の停止」と言う意味での
死です。人の霊は神に対する正常な機能を失ったのです。従って
今日、時に人は神を思うことがあったとしても、彼の神観念は
正に支離滅裂なのです。(だから先ずはとにかく、人の
「死んだ霊」が新しく生まれる必要があるのです。)

なぜ人はそのようになってしまったのでしょうか。それは、
人が「永遠の命」を拒否し「善悪を知る」を選択したからです。
即ち彼は神の命に依存せず、自分の魂の命のエネルギーによって
生きる生き方を選んでしまったからです。

その日以来、彼の魂はその分限を超えて「成長」し続けました。
その結果、度を越えて肥大した魂の力によって、遂に魂は、本来
魂の主人であるべき霊に絡まり抑圧することにより、霊と魂の
本来の地位関係を完全に逆転してしまったのです。人が神から
独立する道を選択したことは、かように人の内面に不秩序と混乱を
生じさせると言う実に巨大な代償を払う結果となったのです。

しかし事はそれで終わりではありませんでした。
更に人は坂道を下り続け、遂には、何と体の「肉」が魂を制圧する
に至りました。即ち肉が人の総ての王権を握ったのです。これが
人の終着点でした。その事実を聖書では「人は肉に過ぎない」
と表現しています(創世記6の3)。もはや人の意志が正常に機能
するはずもなく、人の理性や感情も肉の力に圧倒されてしまった
のです。これは「霊を総てのよりどころとする、霊→魂→体」と
言う人本来のあるべき姿から見るならば何たる恥辱でしょうか。

しかし、この状態こそ昨今普通に見られる世情の真の有様では
ないでしょうか。しかしこの全世界的傾向はこれからも更に
増大し続け、人々は必ずある極点を迎えることになるでしょう。
正に今は「大洪水」前であるからです。
(このような圧倒的世情の只中で「真の箱舟」を
建造せんとするのは一体誰でしょうか。)


しかし私達はそれでも神を賛美するのです。なぜなら今でさえ
人の霊は「聖域」であるからです。神に感謝します、どんな人で
あろうと、神は彼の霊を守られます。なぜでしょう、それは
人はこれから、その場所・彼の霊の中に、あの「人の子となられた
聖なる永遠の復活の霊」を迎え入れる可能性が
いまだに残されているからです。

ですから、人の必要は唯 真の命によって彼の霊が新たに
生まれる事、次に「主と一つになった彼の霊」(Ⅰコリント6の17)が
正常に機能するために、次第に成長、円熟して行くことなのです。

2008年12月2日火曜日

あるブログのコメントから

candyさん:
交わりの喜び、いのちを共有していることが、多くの説明を必要と
しない、嬉しい交わりですね。いのちの成長が、個人のものだけ
ではなく、共に成長させられていることを感じさせられます。

sugar:
交わりの本質、交わりの真の中身、即ち「~間を」行きめぐる今日の
キリストそのものこそが、エクレシアであると信じます。
今、姉妹の近辺にそのエクレシアが生きて存在しているのである、と
感じさせられ、こんな嬉しいことはありません。
ただ、神に感謝を捧げます。

candyさん:
アーメン!御父と御子との間にある同じ親密さの中へ入れられただけ
でなく、その喜びを真に味わい、楽しむように導かれていることは
なんと素晴らしいのでしょう。主の下に引き寄せられたいのちの
交わりの内に、神の現存を見出す喜び、あぁここにも主がおられる・・
その安心はなんと深いものでしょう。
ただ、ただ主ですね。私たちは主がしてくださることの中に、安らいで
いるだけ。贈り物に満ちた主の恵みは今日も本当に十分ですね。

5層三階建て高級ステンレス鍋

実際に使って見ると、あの私のダッチオーヴンにも、
多少デメリットがあることが分かって来ました。
少し小さいのですよ。なるべく沢山作り置きして調理を怠けたい
私にとってはそれはイマイチです。その上、前に書いたように、
調理後の洗いが結構面倒、更に、当たり前だが結構重いのです。
結論的に、アウトドアとか時々ならいいが、これからの人生
毎日三度三度ダッチオーヴンじゃ、やはり大変です。

その時です。
何と突然、この5層三階建てステンレス高級鍋が与えられた
のです。(おとといの午後くろねこヤマトが運んで来た)
5層とは鍋の本体のステンレスが5層と言うことです。(だから
結構重い)鍋の壁が5層であることによって鍋としての数々の優れた
機能が生ずると言うのです。三階建てとは一度に一階、二階、三階の
三つの部屋で三種類の食材を同時に蒸すことが出来るということです。

使って見ると中々いいのです。ダッチオーブンの機能は全部備えて
いるし、これで何とも前述の幾つかの欠点は見事全部解消して
しまったのですよ。実際料理して見るとすぐに分かりました、
ああこの鍋、一生ものだなと。鍋の世界もバカにならないものです。
全く知らなかったよ、こんな鍋がこの世にあったなんて。


それにしても、どうにも不思議です。またまた、絶妙の
タイミングで私の調理のトラブルが全部見事に解消してしまった事。
それも、私が全然意図しない所から降って沸いたように突然。
何と言ったらいいのでしょう、正直、主はまるで「これでもか
これでもか」と私の食生活をケアして下さっていると言う感じです。
これただの偶然?それにしては出来過ぎです。

要するに主は例外なく、私の生活のすみずみに至るまで、
「私の総ての必要」になられたいお方である、
と言うことなのでしょう。しかし実の所、言うはやすしです、
「主をして私の総てとならしめる」と言うのは。

PS:
ダッチオーブンの方は焼き芋用にまわしました。
ダッチオーヴンのジャガイモ、
バターをつけたりして結構いけますよ。

2008年12月1日月曜日

霊、魂の問題

ある点について霊、魂、の問題が提起されました。
この機会にこの問題に関して私が日頃感じていることに
少し触れて見たいと思います。

いずれにしろ、人がこの問題に真剣に向き合うと言うことは、
素晴らしいことだと思います。僭越ながらもしも「人・自分の内面
がどうなっているのか」について真摯な関心がないとするならば、
キリスト者として、どんな前進も殆ど期待出来ない
と私は真剣に思っているからです。
さて私は先ず、二つのことを確認する必要があると考えます。

①この「自分の内面がどうなっているのか」の追求の目的は
私たちの普段の生き方が、私達からキリストが表現され、それによって
神の敵が、即ち「この世の悪の根源」があばかれ退却する事に確実に
繋がって行くようになるためです。即ちそれは神と人の
実際的な益のため、でなければならないと思います。

この時代において、キリストはキリスト者と言う「存在」を通してのみ
初めて地上に表現されます。だからこそ、私達は自分と言う「存在」の
中央部分に関する正確で真の「知識」を必要とするのです。

しかしもしもこの目的を別にして、この霊と魂などと言う途方もない
問題(それはあまりにも膨大で深い背景を持っている)に入り込む事は
正に雲をつかむようなことになってしまい、たちまち壁に
ぶつかるか、仲たがいするか、疲れ果てるか、でしょう。
「知的好奇心から」だけでは、労多くして、益はあまりに少ないのです。

②これらの問題の底はどうしても「永遠と言う領域」にさえ触れて
行かざるを得ません。そして何とそこには生ける神が存在するのです。
即ち、これらの問題の根は「神の真理に直接触れざるを得ない」
と言うことです。更に言えば、その「神の真理の実質」とは単なる
事実・モノなどではなく、今日の生けるキリスト御自身に
他なりません。真理とは実に「神聖で純粋なあのお方」なのです。

この時空の中の、あれやこれやのモノ・事象については、随分詳しく
知ることが出来るのに、人類は自分にとって一番大切な「人の根源的問題」
についてはどうして何も分からないのでしょう。なぜなら、その様な人の
根本的問題の底は「神の真理」に繋がっており、更にその真理とは
生ける神、復活のキリストだからです。そしてキリストは神の「奥義」
であります。(コロサイ2の2)

当時の群集は十字架以前の「イエスの物質的な体と魂」に物質的に
また心理的に触れることは確かに可能でした。しかし復活後の
キリストに触れることは、当時のキリスト者といえども
なかなか難しいことだったようです。
そのキリストに触れる秘訣は何でしょうか。それは唯、
マリヤのように、ひたすらイエスのみを慕う心を持つことと、
弟子達のように単純に信じることだけでした。

ですから、私達の限られた知性のみで真理なるこの復活のイエスに
触れることなど絶対に不可能であると言えるでしょう。
もしも単なる被造物・人間の限定された知性のみで、この霊・魂の問題
が全部分かるとするならば、世の頭のよい人々は皆、神と人に関する
根本的な問題についてきっと「正しい知識」を持つ筈です。しかし現実は
その逆です。もしも私達でさえ、自分の意志を振り絞り「頭だけで」
霊と魂について知り尽くそうとするならば、そのような時イエスは多分
あなたの知性のみの追求を敢えて妨害しに入って来られることでしょう。

パウロなどは(極端にも?)次のように断定しているほどです。
「生まれながらの人(原文では魂の人)は神の霊に属することを受け入れ
ません。・・またそれを悟ることが出来ません」と。(Ⅰコリント2の14)
しかし、感謝です、主イエスは「その方、即ち真理の御霊が来ると、
あなた方を総ての真理に導き入れます。」(ヨハネ16の13)と
言われました。

私がもしも聖霊により頼み、神が必ず私の心の目を開いて下さる
(エペソ1の18)と言うことを信じ、そして焦ることなく主を待つ
ことが出来るならば、神は必ず私を導き、真理に触れさせ、
神と人の為に真の益に繋がる素晴らしい結果を、私の普通の
生き方から、生み出させて下さる事でしょう。
それは実に軽やかで楽しい道であるに違いありません。

★お知らせ
6日に来られるはずであった台湾の楊さんですが、今回はどうも無理
のようです。と言うのは、6日にどうしても、ある人と会わなければ
ならない必要が生じてしまったからだそうです。何とか調整できない
だろうかと色々工面されたようですが、私は「どうか無理なさいません
ように、主は逃げて行きませんから」と言いました。
あしからず御了承ください。

2008年11月29日土曜日

簡単ポットロースト

末っ子ワタルとガールフレンドが小屋に来るのは、どうやら
新年3日頃になりそうです。よかった、時間はたっぷりあるぞ。
それで今日はインターネットで見つけた簡単そうなポットローストに
初挑戦して見たいと思っているのです。

材料:
牛もも肉(かたまり・細めのもの) 400g
■ 塩 小さじ1 ■ こしょう 少々 ■ バター 大さじ2
■ 玉ねぎ(薄切り) 1/2個 ■ にんじん(薄切り) 20g
■ セロリ(薄切り) 20g ■ ワイン(赤) 1/2カップ
■ しょうゆ 大さじ1 ■ 砂糖 小さじ1/2 ■ クレソン 適量

作り方:
1. 牛肉はたこ糸でしばり、形を整え、塩、こしょうをすりこむ。
2. 厚手なべにバターを溶かし(1)を転がしながら焼き色をつけ、
玉ねぎ、にんじん、セロリを入れ、赤ワインを注ぎ、ふたをして中火で
約10分蒸し焼きにする。
3. 肉を取り出し、ボウルに入れてふたをし、約10分蒸らす。
4. なべの煮汁に砂糖としょうゆを加えて煮立て、こし器でこし、
ソースにする。
5. (3)のたこ糸を切り、スライスして器に盛り、(4)をかけ、
あればクレソンを添える。
*ランプ肉は牛もも肉の中でも、肉質がよく、やわらかい。できれば、
ランプ肉を用意するとよい。


牛肉より豚の方がおいしい、豚じゃだめなのかな。
肉をしばるだって?何でそんなことするのかな。
煮汁をこし器でこす、こし器?ザルでいいのかな。
クレソン、あるかな。

2008年11月28日金曜日

霊 対 物質


人の物質への執着は
「自分の持ち物・財産→愛する者・家族等の体と命→
自分の体→自分の体の命」へとより重く深刻になります。

今この時代、物質世界を不法占拠している強大なこの世の大王に
私達が対抗する為には、神の敵が「私の命をも含む私に属する
これらのモノ」をどうしようと構わない、と言う彼に対する
「深い覚悟」がどうしても必要であるように思われます。

実は、昨日の午後から今朝にかけて、主はこの面で大いに
私を取り扱われました。それは私にとって、とても深刻で
貴重な時間であったと告白しなければなりません。

要はモノに対する霊の絶対的とも言える優位性を昨晩、僅かながら
経験することが出来たのです。人の命をたてに脅迫する神の敵の
悪巧みにキリスト者は決して屈するべきではありません。その
「覚悟」に至った時(それは全く主からでした)狼狽する私は初めて
深い安息を覚え、深い眠りへと導かれたのです。そして今朝に至り、
その問題は完全に無きがものの如くになっていたことを
知らされたのです。


キリスト者にとって
「私の本質は霊である」とする方が、聖書の様々な真理を
より無理なく説明できるように思われます。

新約聖書は明らかに「霊対肉」と言う図式を見せています。
しかし、それはそれとして「霊対物質」と言う図式も一つの
大きなテーマであることは明らかです。

物質は当然重要です。神もそれに対して一定の
価値を置いておられるからです。
しかし、神の真剣な目は「その向こう」をより注意深く
凝視していることは更に明らかです。

将来、物質は存在するのか、その応えは「しかり」です。
神は人に「復活のからだ」や新エルサレムと言う実体を
啓示しているからです。しかしそれは「霊のからだ」であり
言わば「霊の物質」です。やはりあくまで霊が主体本質なのです。


あのキリストの十字架において、神が真に意図されたことは
「それまでの物質界」の総てを総決算する、と言うことでした。
それは「物質を真の実体であると私達が認識しているその認識」
に対する神の一大チャレンジと
神が実際的に「物質を切り離し取り除く」と言う断行・執行の為の
決定的な法的断罪であったと言ってもさしつかえないでしょう。

にもかかわらず、十字架は神の最終目的ではありませんでした。
それは、神の心にあった別な実体の導入のためであったのです。
そしてその実体とは何と「復活した人とそのからだ」なのです。

それでは、その復活された人の中にあったものは一体何でしょうか。
それは「神性と人性、そして永遠、無制限と不死不朽」です。それら
を総て包含したイエスキリストの復活と言うもの、更にその復活を
内包し運ぶ所の「あの霊」と言う図り難い価値を有するもの、
それこそが神の目的であったのです。

その人の復活の後、宇宙における総ての評価、判断基準は
革命的に変化してしまいました。私達はどうしてもこの革命に
ついて行かなければなりません。
例えばそれ以後、復活だけが神にとっての「合法」であり、合格
ラインとなりました。それは「主イエスは・・私達が義と認め
られる為によみがえられた。」(ローマ5の25)とある通りです。
従って復活でない義など、神の目には
最早ありえないものと私達は思うべきです。


今この時代「あなたの物質」の奥深い所でキリストと一つになって
いる復活の霊、その見えない小さな一点に、永遠における
神と人の希望が総て隠されているのです。
それ故、この神の最重要真理を啓示されるために、私達はただ
「復活者のことば」にだけ耳を傾けるべきです。
それは「復活も出来ないような者」の言葉に
いかほどの値打ちがあるだろうか、と言う意味です。それは日夜
あなたを訴え続けているウソつきサタンを撃退する
強力な証しの言葉となるでしょう。(黙12の11)


その復活と一つになった私の中の人の霊と言う隠された実体、
その実体への私たちの評価というものが、自分の永遠のあり方を
決定してしまう、と言っても決して過言ではない
と今私は考えているのです。

2008年11月26日水曜日

イモクボさんのブログ

イモクボさんのブログを紹介します。
と言うのはこの度、彼は本格的にログハウスの建築に着工した
からです。彼の手によるログハウスは・・

ほぼ完全な「セルフビルド」です。
私の場合であれば、セルフビルドとは言っても、屋根のトタン工事等は
業者に丸投げしたのです。(2バイ4工法。ログではない)
ですから100%のセルフビルドではありません。しかし彼の場合は
限りなくセルフビルドに近い、実はこう言うのは
そんなに多くはないのです。

彼が東京の立派な仕事を「えいやっ」と投げうって、私の近所、
この究極の田舎に移られたのは04年、もやは決して若いとは言えない
年齢で毎日、森林組合の超重労働(要するにキコリ)をこなしながら、
過去数年の準備段階を無事通過、遂にこのたび、自宅の本建築に
こぎつけた。実はここまでの過程で、ギブアップする人が多い中、
よくもまーここまで来られましたねー、イモクボさん。

それから、彼の年齢から見て、まれに見るその体力もミモノです。
「これから年を取って行くのが楽しみ」などとさり気なく言うこのおじさん、
こう言うの、実はこの世の「第一級幸福者」のセリフだと私は思っている。
今後、加齢に賢く抵抗する体力の保持、この点も、これからの
観察ポイントです。この加齢と病気そして怪我の問題、この点でやむなく
断念する人が何と多いことか。これは、「あこがれの田舎暮らし」にも
見られるとても悲しい隠れた現実です。

それから一寸偉そうに言わせてもらえば、彼は、お仕着せのワンパターンで
何となく仕事をする人ではなくいつも、もの事の原点に戻って、
どうやったら一番よいのかを自分の頭で(ここが肝心)考えることが出来る
人です。だから、イモクボ流はこれからも建築の随所に現れ、彼の
ログハウスとブログを意味深く面白いものにすることでしょう。
(きっとよい味が出るだろう、と言うこと。)

と言うわけで、皆さんはこれから何10ヶ月かの間、彼のブログを時々
のぞくだけで、正真正銘の都会人が、阿武隈山中にログハウスを建てる
と言うその実況記録、また本当の田舎暮らしの一端に接することが出来る
のです。やはり彼のブログ、お勧めですね。



これはまだ、地下、基礎工事です。
これから、この上に丸太を組んで行くわけです。


「狩萬の里/山暮らし(旧都路村)」
田舎生活の夢、やみがたく、2004年夏、都路村に単身移住しました。
団塊の山暮らし、山仕事(木こり)五年目です。

ダッチオーヴン、その後

わが家には例のケンとジュンのほか、三男のワタルと言うのが
おります。新潟で潜水士をしているこの末っ子が、この年末、
何とガールフレンドを連れて小屋に来るかも知れない、と言う
のです、これは大変だ!と言うわけで私は今、ある種の小さな
緊張と大きなワクワク感の中にいるのです。

と言うことで、何とかあのダッチオーブンで、あの無愛想な
ワタルとまだ見ぬ彼のガールフレンドを驚かせてやれないもの
だろうかと、きのうから料理の試行錯誤に入っているのです。

野菜の水分だけで十分だから、オーブンに水など入れなくともよい、
と言うことでガス火でガンガンやったら、食材のがコゲるやら、
後でナベがくさくなるやら、ドロッとした黒い汁がなべ底に残る
やらと、オーブンの後始末が気持ち悪いほど大変だったのです。

この原因は、先ずはナベの火が強過ぎたことでした。最初は強火でも
よいのですが、湯気が出て来た段階で初めてフタをして、後は
ごくごく小さなトロ火にかけておけば、十分食材はウマミを
出してくれる、などと言うことは全く知らなかったのです。
それにしてもトロ火の威力には驚きましたね。

だから昨日は初めて、試みに、水では芸が無いと、日本酒をなべ底に
少し敷いて見たのですが、それでも水分が少し多すぎました。
この最初にナベに敷く水分の量はビミョウ、こういうのはやはり
経験しかないのでしょう。

青魚は難しい。
あの臭みのメインの原因は、サンマのハラワタと頭をカットしなかった
せいだったのです。3週間前、小名浜の近くで一箱千円で買った
サンマがまだ残っているので今日あたりトライして見ますかね。
今度はチャンとニオイ取りのネギなどを入れて
アルミホイルでサンマをカバーしたりしてね。

そのほかはですねー、昨日、鶏肉のかたまりに塩コショウを
すり込んで、などと言う「大テクニック」を生まれて初めて
試みたのであります。ああ、それにしてもあの無精者の私が、
鶏肉に塩コショウをすり込んで「料理」をするなんて、
人生の展開、ホンと分からないものです。

PS.こういうたぐいの料理法、大きく言えば
ポットローストと言うのだそうですね。

2008年11月22日土曜日

十字架、復活と昇天の相違(2)

創世記一章に出てくる神の「創と造」における二日目、三日目、四日目
は、十字架、復活、昇天と言うキリストの経験に対応するようです。

二日目の神の作業(実は御子の作業だった)は「上の水と下の水
との区別、分離、隔絶」でした。キリストの死・十字架の御業の
特徴もやはり区別と分別です。中央、中間に十字架が立ち、
その左右、上下にあるもの(例えば二人の強盗)をキリストの死は
決定的に分断隔絶したのです。

三日目はご存知、復活です。死の水の中から、乾いた地が昇って来た
のです。それ以来、神は陸と海の間に境界線を設けられ、神は陸を
守っておられます。しかしながら実は陸地のすぐ側に海(死、罪、肉、
この世等)は依然として存在しているのです(黙示録21の1までは。)
従って私達は、今の時代、自分の態度一つによって、常に海の影響から
自分を守る必要があるのです。しかしそれは難しくはありません。
何故なら私達はただ陸地に留まりさえすればよいからです。
(「留まる」はキリスト者にとって最重要キーワードの一つでしょう)

陸地とはなんでしょうか。陸地とはイエスの復活によって何と神性を
人性と一つにされたある領域です。実に私達は今その中に召し込まれて
いるのです。それは具体的にはどこにあるのでしょう。そうです、
それはあの「今日の復活された奥義的キリスト御自身」以外の
どこにも存在するはずがないのです。そのキリストとの結合により、
私達は初めて、日々キリストと共に復活させられた生活を
この時空の中でさえ送ることが可能となるのです。

四日目の特徴は種々の天体の光です。神は天に太陽、月、
星を「造られた」(クリエーションではありません)のです。
以上のキリストの御業、即ち十字架、復活、昇天は、それらに
自分を重ね、この私達の肉体を通して、キリストの経験をこの地上・
私の時空内に再現する為のものです。従って私達は日々・・

二日目の死ぬ生活、即ちキリストの死の力によって他の
悪しきもの(罪、肉、この世、宗教、律法等)から私を分断する
生活、そしてまた、神が私たちに与えられたあの領域(今日の
キリスト)に留まることによって海の影響から
超越する復活の生活(三日目)
そして太陽と共に天に留まる発光体(月と星)として、暗闇
(サタンの支配)を照らしあばき、その影響を、少なくも私
関連の事象内においては、消し去る生活を、換言すれば
この世においていわゆる「一隅を照らす」生活を営むべきです。
悪しき霊どもの暗闇をキリストの反射光によって照らし、暗闇を
追い払うと言う敵に超越する高貴な生活が昇天の生活の特徴です。


これらは総て「私達のキリストとの結合」と言う事実がもしも
存在しないのであるならば、ことごとくおとぎ話と等しい価値しか
ありません。もしもそうであるならキリスト者ほどおめでたい
人々はこの世にいないことになります。それ故に、パウロは
「キリストにあって」「キリストの中で」を絶えず強調した
のです。したがって「私がキリストの経験を追体験する」は総て
IN CHRISTにかかっていると言っても過言ではありません。

2008年11月19日水曜日

キリストから引き出す

「ただキリストの過去の経験と結び合わされる者だけが、
キリストの将来の栄光と結び合わされます。」
これはあるキリスト者の言葉です。


永遠と言う観点から見て、それがいかなる人の、いかなる経験
であろうと「人の独自の経験」というものに神が評価を与えることは
あり得ません。神が認められるのは唯キリストとその経験です。

ですから私たちの総ての経験というのは、キリストが過去に達成された
キリストの経験から来なければなりません。神がよしとされる私たちの
経験とは、過去のキリストの経験に「自分を重ねる」時に、初めて
無理なく生じるものです。この世、そして親から受け継いだ遺伝や、
自分が獲得したものなどの中から、何とか「私の素晴らしい経験や実行
をひねり出す」と言うのでは「神の基準」には絶対に届かないからです。

何故でしょう。なぜなら、たとえそれが人の目にはいくら立派に見えた
としても、それらの産物は所詮総て第一の人・古いアダム、古い創造に
起源を持つからです。それは私達ではどうにもならない必然です。
ですから神は何と二千年前、既にそれら総てを、最後のアダムの肉の
中で死刑と言う断罪に処してしまったのです。そのことこそ、人類の
歴史の真ん中に立てられた十字架によって、神が今に至るも
全宇宙に向かって宣告している事に他ならないのです。

ですから結論として私達は「どうにかして」ただこの復活された
新しい第二の人・キリストから、即ち死の水から上がって来る
ことが出来た只一人のお方だけから「私の経験」を
引き出さなければならないのです。(実はそのことに対する私の
神への同意として、私はバプテスマを受けた筈です。)


21世紀に生きる私達が、2千年まえのキリストの経験を引き出す?!
なぜこのような途方もないことが可能なのでしょう。

①なぜなら、キリストイエスは私と言うアダムとピッタリ符合し、
ピッタリ重なることが可能な正真正銘の私と同じ人・アダムになられた
からです。即ちイエスは最後のアダム・人類の総合計として、私と言う
アダムを彼の内に含んで十字架に付けられたからです。

もしもあなたがアダムであるならば、どんなアダムであろうと
やはりアダムです。これは生命と言うものの持つ一つの
動かしえない特徴ではないでしょうか。これは即ち、同種の生命に
見られる生命の同一性と言うことです。

「一人の人が総ての為に死んだ以上、総ての人が死んだ」(Ⅱコリント
5の15)このパウロがしばしば主張した主張、即ち「最初のアダムの
中で人類は全員もれなく罪を犯した」と言う主張とそれは原理において
全く同じものです。パウロは続けます:
「もし、一人の人の違反により、一人によって死が支配するように
なったとすれば、なお更のこと・・受けている人々は一人の人イエス
キリストにより、(全員)命にあって支配するのです。」
(ローマ5の17)

②そしてまた同時にイエスキリストは永遠の神でもあられる故に、当然
その総ての経験には、時空を超えた永遠性があるからです。時空の中では
それは二千年前の出来事でした。しかしキリストの十字架は時空を超越して
今この瞬間もあなたが受け入れるばかりの所に存在しているのです。

③更にもう一つの理由は聖霊の存在にあります。
「あなたが、既に神によってキリストと重ねられている、即ち彼と
一つとされている」と言う神の真理に単純に信頼を置く時に、
これまた永遠の中におられ、総ての制限を超える能力をお持ちである
聖霊は、実はキリストの経験をあなたの肉体を通して、時空の中へ出現
させる為に、今か今かとあなたの信仰を待ち構えておられるからです。
それはあなたの為に遣わされている聖霊の言わば「専門職」なのです!

④そもそも私達の父なる神は、人に無理難題を押し付ける神ではなく
あの放蕩息子の父のように、私やあなたの為に総て、全部を
なさりたい方であり、御自分の所有の一切を私達に与えたい
方なのです。もしあなたが「あの兄」の様にそのような
父なる神に「させない」のであるならば、あなたは父に
大きな苦痛を与えることになるでしょう。

三で一の神はあなたの為に働きたい神です。神に感謝します、
正に今は恵みの時代なのです。

ですから私たちに必要とされるものは、ただ二つのこと:
神の言葉と神の能力というものへのあなたの実際的信頼と、
そして自分の存在と能力に対する絶望です。


私達が自分を重ねるべきキリストの経験とは、彼の受肉、人と
しての歩み、十字架に向かわれたこと、死、復活、昇天の中で
十字架に向かわれたこと、死、復活、昇天と言う部分です。



★お知らせ
このブログに何度も登場された、あの台湾の87歳の姉妹
楊劉秀華さんから「皆さんの交わりに参加したいので、次回の
我孫子の集まり(12/6)に行こうと思っています。」との
連絡が台湾からありました。
その次回の我孫子の集まりの時間と場所は
12月6日(土)我孫子「ケヤキプラザ」録音室です。

「ケヤキプラザはJR我孫子駅南口から左に歩いて1分、
イトウヨウカドウのすぐ前の、新しく白っぽい背の高いビルです。
12時半、プラザの玄関ロビーに集まり、皆で食事をしてから
1時半前に録音室に向かいます。1時半に録音室に直接行かれても
いいです。部屋が狭いかな、でも参加はどなたも自由です」との
我孫子の兄弟の言葉です。

2008年11月17日月曜日

あかしやさんのコメントから

(一)
私は難しい解釈は出来ませんが、こう思います。
イエス=神
イエス=人間の姿をとった神
人間とコミュニケーションと関係を持ちたいので、そういった姿に
なられた。神様だからこの世と神の国を行ったりきたりできるイエス。

人間の形をもったイエスにそれができる。 この世にいてイエスを
信じる者たちは、死はこの世と神の国の通過点でしかないということに
希望を見出す。
こんな単純な解釈しかできませんけど。 

先日、”90 Minutes in Heaven"というベストセラーの本を2日で
読みきってしまいました。 確かに、神様の国は存在します。 
いいところみたいです。行ったら、帰ってきたくないところらしいです。

そこで、私たちの家を用意してくれているイエス兄さん。 
さすが、元大工さん。
だから、みーんなが、そこにいかれるように、神さんは、
マルコ16:15、マルコ28:19で命令されているんですよね。
それが一番大事。 

アメリカ選挙で、Abortionだの、Gay Marriageだの、と騒いでいますが、
そんなのどうでも言いや、と思います。
ps。ところで、弊BlogでSugarさんのBlogを紹介させていただきます。


sugar:
あかしやさん、とてもわかりやすい表現を有難う。
あなたの単純、率直な言葉づかいのおかげでピンと来た
人はきっと少なくないのではないでしょうか。

昨日の記事にコメントして下さった、もぶぶさん、
いちはのすずめさん、Mさん、あかしやさん、そして私と、
この五者五様の個性の違いが実に楽しいと思いました。

五人はきっと「あの一人のお方」の中に流れる不思議な川に
身をゆだね、あたりの景色などを眺めながら、ただ楽しく
流されていたのではないでしょうか。そしてこの五人が一様に
タッチしたのはあの不思議なお方・イエス兄さんです。
しかしながら、またもや不思議や不思議、その一人のお方の中に
私たちのお父様だけでなく、古今東西の総ての愛する兄弟姉妹も
全員いたのです!これが私たちのかけがえのない
家族であり、エクレシアです。

こんな「沸き立つ」交わりがこんなブログの上にも存在するなんて、
ただただビックリ、主に感謝です。
これから、このような「キリストの沸き立ち」が、世界中の主をまだ
知らない多くの人々にも触れ、届いて行くことを心から願っております。
イエス兄さん、なにとぞよろしくお願い致します。
ブログの紹介有難う、その結果が楽しみですねー。


(二)
11/14「高山家のお父上(2)」へのコメント

私が余命2ヶ月と言われたら・・。 
今日言われたら、やはり、死ねないなぁ。子供と夫がいるから。
でも、92歳まで生きていて、神さんを信じていれば、そして痛みや
苦しみがなければ、わくわくと楽しみに待つのでしょうね。 
自分の葬式にどの歌を歌ってもらうかを自ら選曲したりして。
死を前にして、こういった心の平安を与えてくれるのが、
神さんなんですよね。ありがたいことです。

千葉のMさんのコメントから

Mさん:
今日は朝から雨です。
静かな午後のひと時が流れていきます。

さて、肉としての我々の根源は、反逆心だと思います。
肉の根源であるサタンの根源は、神の権威への反逆です。
それは実生活、人との関係において露見してきます。それは
理屈ではありません。見えるものは、見えないものに支配
されています。一方、神の子としてのキリスト者がこの時空に
実際のキリストを降ろしてくる方法は、信仰による完全なる服従と
Sugarさんが敢えて表現しました、信仰により
『「あのイエス(今日のキリスト)を自分とする」』
これしか方法はないのでしょうね。

sugar:
もし「聖画に出てくるロンゲのナザレのイエス」を自分である
と言うならば、その人は精神病患者でしょう。また「私は再臨の
キリストである」などといえば、その人も患者さんであるか、相当
危ない人に違いありません。
しかし「今日のキリスト、今現在天と地に同時におられるあの奥義的
キリスト」の中に私は存在している、と言うのはなんらの問題も
ありません。なぜなら私達は「キリストのからだ」であるからです。

さてからだと頭を分断することは不可能です。カクレンボで太郎君
の背中を見つけた次郎君は、その背中だけを見て「あ、太郎君だ」と
言います。私達一人一人は当然、その奥義的なキリストのからだの
ホンの一部に過ぎないのですが、同時に私一人の中におられる
神聖なるお方は「一人の完全なキリストの全体」でもあります。
だから私の中のキリストは部分であって、しかも全体なのです。
これはやはり時空に制限された人の理性では到底解き得ない
一つの奥義であると言わなければならないでしょう。

「私はブドウの木(イエスはブドウの幹とは言われなかった。それに
しても、ブドウの木の幹と枝の境目はどこなのでしょう。)であり、
あなた方は枝です」と主イエスは言われました。ですから私達こそは、
ブドウの木(今日のキリスト)の構成要素です。何故なら枝枝の
総合計がブドウの木であるからです。

今日科学者は、一植物のどんな小さな細胞一個からでも、その植物の
全体を引き出し、再生再現することが出来ると言います。一個の種の
様に何とブドウの木のどの一細胞の中にもブドウの木の全体があると
言うのです。(やはり地上のブドウの木は「天地にある唯一の真の
ブドウの木」を指し示してくれているのです。)

ブドウの一枝は、それが何らかの理由で不幸にもブドウの木の
命から切り離され、火にくべられようとする時に、即ちエクレシアの
交わり、キリストのからだの命の交わりから分断される時に
初めて個の意識、即ち部分感覚、独立独歩感覚、自給自足感覚等が
発生するのです。実のところ、その感覚は、そもそもエデンの二本の
木の中、あの禁じられた木の実を人がとった事に起源を持つのです。

しかしながら、人が真の命の交わりの中にある時、私達が
キリストの中に留まる時、また「枝が自分をブドウの木とする」時、
即ち私達が善悪を知ろうとする呪いから逃れ、あのもう一方の木、
命の木の実・キリストにあずかる時には
そこには「個の感覚や意識、そして主張」は最早消えうせ、
天地におられる唯一の新しい人・キリストだけが
総ての総てであることを知るのです。


・「からだの部分は多くあっても、その全部が一つのからだであるように
あのキリスト(今日のキリスト)も同様です。」(Ⅰコリント12の12)
・「その日には、私が父におり、あなた方は私におり、私があなたがたにおる
ことが分かります。」(ヨハネ14の20)
・「サウロ、サウロ、なぜ
私(サウロが迫害していた当時のキリスト者達)を迫害するのか」
(使徒9の4)
・そこには、ギリシャ人とユダヤ人・・はありません。キリストが総てであり
総ての内におられるのです。(コロサイ3の11)

2008年11月15日土曜日

十字架、復活と昇天の相違

キリストの死、復活と昇天には当然ながら相違があります。しかし
その相違の中で、一番大切なポイントは何なのでしょうか。私は長い間 
これがハッキリしませんでした。しかし今あることを少し見させられつつ
あるように思います。

その前に、死、復活と昇天、この両者の共通点を見て見ましょう。
その共通点とは、神の子キリストが「人の代表として」達成された
ことです。だから、この両者において達成された事実は人に対して、
即ち私たちに対してもたらされたのです。即ち、私達は何とキリストの
死において彼の中に包含され、これらのキリストの経験を彼と共に
通ったことになる、と言うことなのです。


さて本題である「両者の相違」ですが、先ず死・復活は
キリストの「バトル(戦い)と勝利」です。獅子・子羊としての
キリスト(黙5の5、6)は十字架と言う敵の戦場で戦い勝利を
得られのです。即ち敵にとっては全く意外な結果となってしまった所の
「人の復活」においてキリストは言うならば勝利の雄たけびを上げられ、
敵のフィールドにスックと立たれた、と言ってもよいでしょう。これが
キリストの十字架の戦いと復活におけるの勝利の象徴的な表現です。

次に昇天とは、その戦いと勝利の結果、覇者キリストが神によってある
高貴な空間である言わば「天の貴賓室」に導き迎え入れられた
と言う事です。その第三の天と言う貴賓室は総てにおいて卓越した場所に
違いありません。その貴賓室で彼を待っていたものは3つあり、それは・・

①先ず椅子です。(聖書では、椅子などとは言わず「座」と呼んでいます)
座とは権威を執行する場です。天にある座に座すお方は今、宇宙に対して
この時代における神の権威を執行しておられるのです。民主主義国家
日本の総理の椅子に座る麻生さんでさえ、以前と今とでは彼に対する
周囲の反応は全く異なったことでしょう。それは当然アソウタロウの
力と言うよりも総理の椅子が本来持っていて、この度彼に与えた権威と
パワーなのです。しかし天の座は王国の座なのです。

②次は冠です。それは「茨の」でなく「栄光と誉れの」冠でした。
ヘブル書2の9に「御使いよりもしばらくの間、低くされた方である
イエス・・は死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けに
なりました。」とある通りです。戴冠式を経、王とされた人とそれまで
民間の間で暮らしていたそれまでの彼とでは根本的な相違があるのです。
栄光とはその本質が現れ輝き出ることであり、敵は主イエスの栄光の
光について考えるだけでおびえてしまうに違いありません。

③また彼に対して総ての名に超越する御名が与えられました。その御名の
前では「総ての者が膝をかがめなけれならない」と神の言葉は言います。
この第三の天において彼に与えられた「イエスと言う名」はナザレに
おられた時のイエスと言う名と表面上では同じですが、その名の内容、
その力と重量においては全く違うのです。

私達は今、その名の権威を真に知り、更に日常総ての中でこの力ある御名
の中に留まる必要があるのです。それが「御名の中で」と言う意味です。
(よくあるように、祈りの最後に「これで私の祈りを終了します、次の人
どうぞ」などと言う意味でイエスの御名を用いるべきではありません。)


これらの天においてイエスに授与された3つのものは総て
1.「神が」神の絶対的な言葉によって絶対的な権威の下に授与された
ものでした。それは「絶対」なのです。なぜならそれは「神が」である
からです。この「神が」と言う言葉の意味は多分私達よりも、天使や
悪鬼達の方がより深く認識していることでしょう。「神を知り、神を
神とする」と言う単純に見えるテーマこそが最も深遠な課題であることは
論を待ちません。彼は神であり、あれは神の言葉であり、
これは神の権威なのです。

2.そしてそれらは、神によるオフィシャルで公式正式の授与でした。
それはあたかも、ある学者が隠れた研究室で素晴らしい学問上の業績
と言う事実を持つことと、それが皇居でその功績が公式に天下に
号令・布告される、のとの相違を意味しているのかも知れません。

そうです、神の一人子イエスが命を賭して成就された偉大なる功績
に基づき、神がその御子の達成を全宇宙に対し既に公式に号令・布告
されてしまったのです。ダニエルの王の場合の様に、神の意志に
基づいていったん公式にオフィシャルに宇宙に対して布告号令された神の
言葉は、その神といえども再びそれをくつがえすことは不可能でしょう。
しかり、たとえ天地が崩れ行くとも、神の言葉はその一点一画さえ
変更されることなど絶対にあり得ないのです。(にもかかわらず、今
神の国が隠されているこの時代において、この事実を今地上の誰が
真に見ることが出来るでしょうか。)

3.そして当然これら3つは総て、ナザレのイエスに授与されたある
「地位」を意味しています。その地位の特徴は「高貴」です。それは
高度において極めて高く、そして最高度に「貴」です。極めて強大な
パワーも貴に対しては平伏するのです。貴ほど高く権威と栄光あるもの
はありません。しかし人の言語の中に「この高貴」の高度とその
ロイヤリティの極致を的確に表現し得るものはありません。せいぜい
パウロのように「諸々の天(時空宇宙の最高点)よりも遥かに高い」
とでも表現するしか無いでしょう。

そして極めて重要なことは、総じて昇天のイエスは、神が神の敵の陣営に
対して大いに誇り、意識する存在であると言うことです。私達も今
この事実を神が見ておられるように見る必要があるのです。


私達は「以上の神の既成事実であるイエスの死と復活の勝利、そして昇天
における「何者も近づき触れ動かし得ない高貴な地位」の中に「今ある
現実の中の自分」を持って行き、重ね、一つにする、敢えて言うならば
「あのイエスを自分とする」必要があります。換言すれば、それは
信仰によって昇天のイエスと私を一つに結合させる、と言うことです。

しかし何故そのようなことが可能なのでしょう。何故なら、その事実は
神によって既に達成されているからです。従ってあなたのするべきことは、
ただ信じることにより黙ってその事実をいただくことでしかないのです。
それは私達が初めて永遠の命を賜られた時と原則においては
全く同様です。幸いなるかな、今はまだ恵みの時代です。

私たちの総ての今の「のぞみ」はその一点に凝縮されています。なぜなら
私達には「善きもの総て」を、唯「イエスキリストから引き出す」
以外に「方法、手段」と言うものは他にあり得ないからです。それこそが
実際的に「十字架・復活と昇天のイエスを信じる」と言うことです。

そのような意味で彼を信じることによって、それらの霊的な事実を
自分の生活の中に生かし出し、この「私の時空」の中にさえ、それらの
勝利と高貴な地位を再現し、神の敵を辱める生活を日々営むことこそ、
私達エクレシア、教会の使命に他なりません。

2008年11月14日金曜日

高山家のお父上、その後(2)

その緊急で深刻な医師の判断のもと、半分パニックの中で
清子さんは正直に主に次の様に祈ったのだそうです。
「主よ、御心に従います。でもわがままを言わせてもらえるならば、
もうしばらく地上で、父と一緒にいる時間を与えて下さい。
私はまだ父と一緒にいたいのです」と・・
今日のレポートはその続きです。

「もうしばらく父と一緒にいたいのです。」
何と主は今、この清子さんの願いに忠実に
応えておられるようです。

しかし、病状が安定した後、病院で行われた検査の
結果は無情にも相当深刻なものでした。
先ずそれは、前立腺にガンが発見されたことであり、
また心臓がかなり弱っていたことでした。
しかし最も危機的なことは腎臓機能の低下です。父上の腎臓は今、
正常な腎臓の10パーセントの機能しかないそうで、絶対に
透析が必要な程なのだそうです。しかし御高齢の為に父上の体は
最早、透析等に耐えられる状態ではありません。

遂に医師達は次のような結論を下したそうです。それは・・
父上のお体は最早、いわゆる「枯れつつある」状態であり、
余命は残念ながら、あと2カ月ほどでしょう。従ってこの上は 
お父様にとって一番幸せな状況の中で最期の時間を
過ごさせてあげて下さい、と。

一週間の散歩等の病院でのリハビリの後、正に今現在、お父様は
愛する娘の家、高山家で人生の「最期の」時間を過ごされて
おられるのです。

お父様は今、毎度の食事も、いつも「あり難いことだ」と言いながら
おいしく食べておられます。入院前と全く同じように、92歳の
このご老人は朝、目が覚められると、自分でちゃんとパジャマから
日常着に着替え、二階からしっかりと降りて来られます。そして
「ああ今日も生きている、感謝なことだ」と言われるのです。ある日
清子さんは「そうよ、お父さん、お父さんは神様に生かされている
のよ」と言われると、お父様は本当にしみじみと「そうだ、
そうだよねー」と言われたそうです。

そしてその後の日課の第一は天気さえよければ、清子さんと
散歩に行くことです。そのために朝起きてお父様が娘に最初に
する質問は「あなたの今日のスケジュールはどうなの?」なのだ
そうです。そして散歩をした上に、昨日などは娘の運転で何と
一時間半のドライヴにまで行かれたのだそうです。

清子さんが毎夜、万一の急変に備えて、お父様に添い寝をしつつ
つくずくと思うことは・・
「ああこの今の貴重な日々は、高山家にとって正に今でなければ
絶対にあり得なかったことだ、父のために今が丁度いい時期
であったのだ」と言うことだそうです。それは、
清子さんが御主人の会社の一員として忙しかった数ヶ月前であれば、
またあの御主人の入院等で大変な時期であったとするならば、
お父様との今の穏やかな日々など
到底不可能なことであった、と言うことです。

更に清子さんの言葉は続きます:
「余命二ヶ月と言う医師の判断を前にして今の父の様子を見る時、
こんなミスマッチは他にないと思うのです。今我が家にあるのは
安らぎと平和と感謝です。いかなる深刻さも憂いも全く無いのです。
父の人生の最期に、こんなふうに親孝行が出来るなんて
私は何と幸いな娘でしょう。

私は夫の時と同様、病院でも我が家でも、父を覆いに来られている
主を感じないではいられません。そしてキリスト者達にとって、死には
なんらのトゲも無いと信じます。これから必ず訪れるであろう
父にとっての本当の最後の時間に関しても、今私には何と「わくわく
するような、ある種の期待感」のようなものさえあると
言ったら不謹慎なのでしょうか。
主によって我が家の空っぽにされた器を今度は今、主は一つ一つ
こまごまと丁寧にそして丁度よく、祝福の油で満たしておられるのです。」

2008年11月12日水曜日

ダッチオーヴン効果

正直 驚いております。
ハイ、あのダッチオーヴン料理のウソのような効果です。
これを始めてまだ20日足らずなのに、
体調の著しい好転は明白なのです。

とにかく全体的に体感が実にスキッと爽やかです。換言すれば、
若さが相当部分戻って来たとでも言いいますか。(若い頃でも
私こんな爽やかさを感じていましたかねー、と思うほど)

先ずは夜、深くグッスリと眠れるんですよ。そして
年齢的に(と思っていた)すぐに疲れてしまう傾向が
とても少なくなったことも明らかです。
一つ具体的なことをあげて見ると、この時期になると例年 
足の裏のアカギレが酷くなるのですが、今年はそのキザシさえ
ありません。それから結構 年中悩ませられていた体全体の
皮膚のカユミ、これが何と殆ど無くなってしまったのです。

疲れやすさやカユミ等はどうせ加齢によるものだから、これは仕方が
無いのだろう「それにしても年を取ると言うのは辛いもんだなー」と
実は密かにあきらめていたのですが、どうもそうではないようです。
要するに私の山での「栄養失調」に原因があったのだろうと今
結論せざるを得ないと思っておるのです。

ましかし、ダッチオーヴン以来、私が皆さんと比べて、とても
素晴らしいものを食べるようになったのかと言うと、決して
そうではないのであって、今ようやく私も世間並みの食生活を
するようになった、と言った方がよいのかも知れませんね。


それではどう食生活が変わったのかと言うと、
それが実に単純なのです:
①塩分と糖分の激減
②野菜とイモ類を多量に摂るようになったこと、これだけです。
確かにこれ、皆さんから見ても大したことではないですよね。

そこでここに特筆しなければならないのは、ダッチオーヴンのお陰で、
芋と野菜だけでも満足感が十分得られるようになったと言う事
なのではないでしょうか。(確かに私は「幸福沸点」が著しく低い
人間であることは明らかですが)この料理法のせいで毎日毎度、
野菜と芋、そして少しの肉だけで十分おいしいし、またそれだけで
十分幸福になってしまう、ようになったのです。従って間食、即ち
甘いものなど殆ど必要がなくなったのです。(ついこの間まで、和菓子、
カリントウ等をやたらと食べていたと言うのに)

と言うことは、その満足感はまた、食べる量の減少にも
繋がったのです。これもやはり大きなことでしょう。
多少お腹周りもスッキリして来ているようですよ。

とにかく全体的に無理と言うものが無いのです。大げさかも
知れませんが、敢えて言うならばどうも、ダッチオーヴンのお陰で
「今生きていることの深い満足感があるようになった」とでも
言えそうなのです。食生活と人の精神の密接な繋がりと言うのは
どうも本当のようですね。

これ
「真の食べ物であるキリストを正しい方法で摂取するだけで、
人の総てが無理なく自然に調整される」と言うことの絵なのでしょうか。
そう、「無理なく自然に」はやはり総ての正しく美しいものを計る
とてもよいバロメーターなのかも知れませんね。

それにしても突然降ってわいたような今回のこの出来事、
私の実感を敢えて一言で表すとするならば、それは
「不思議だ」とでも言うしか他に方法がないのですが。

2008年11月11日火曜日

ダラスの「あかしやさん」から(2)

Mr. Sugarさん、
ご返答ありがとうございます。
「下界」と書かれると、まるで仙人のようですね!
自然の中に住みながらも、たまに「下界」に降りて行くなんて、
変化があっていいですねぇ。あやかりたいです。山小屋って憧れです。
さらに畑があったら最高。
日本だとアメリカほど遠くへ走らなくとも山、海がすぐそばに
ありますから本当にいいですね。

私なぞ 「たくましく」やっていかんと、あの双子たちと
やっていかれません。今日も怒鳴って、怒っておりました。
娘が先生の話が退屈だから、友達と話をしていて、先生の言ったこと、
質問を逃して、点数が悪い。点数はどうでもいいのですが、その態度が
私は気に食わんので。 
「退屈な先生はいくらでもこれからいる。なら、やることやってから
おしゃべりしろ!」とひどい説教を、
ワンタンを食べながらしておりましたです。

私のBlogは最近は、まじめ調になってしまいましたが、アイデアが
あるときは、結構くだけております。最近は、犬のばかちんもまともに
なりつつあって、なかなか話題がありませんが。

こんなのでよかったら、紹介でもしてください。
こんなアホでも、神さんは愛してくれているってことが分かってもらえたら。
そして、クリスチャン(というか、イエス営業部)てのは、何もこちこちの
凝り固まったまじめ人間だけではなく、欠点ばかりの人間でも
クリスチャンになれる、あなたもなれるのよ、と言いたいので。

ノンクリスチャンの人にどしどし紹介してください。
もともとのこのBlogの目的は、わかりやすく、たのしく、ばからしく、
ノンクリスチャンに伝えて行きたいってことから始めました。
よろしくお願いします。
尚、Mr. SugarさんのBlogもLinkさせて頂きたく存知ます。
いかがでしょうか?
あかしや


と言うわけで、あかしやさんのブログは
http://brotherjesus.blogspot.com/ です。

キリストの力が私の上に幕屋を張る

表題はⅡコリント12の9別訳です。
キリストの力が私の上に幕屋を張るための条件は
唯一私の「弱さ」です。しかしこの弱さは「私の生まれつきの
弱さ」ではありません。多く誤解されているように、そのような
自分の生まれつきの弱さや失敗をいくら誇ったとしてもキリストの
力が私を覆うことは決してないでしょう。

パウロが意味した弱さとは、私の生まれつきの強さが(そして
生まれつきの弱さでさえも)キリストの十字架の殺す力に触れられた
後に初めて生ずる弱さです。いわゆる私の弱さが、生のままその弱さの
中に留まることなく、更にキリストの殺す力によって「キリストの死」を
実際的に経過した後の弱さです。即ちそれはキリストの死の印を帯びた
弱さとでも言えるものでしょう。かようにキリストの十字架の殺す力は、
神にとって、キリスト者の日々の切実な必要であるのです。

それ故、私達は毎日、私の生来の力一切を「喜んで迎え入れようとする」
キリストの十字架の殺す力に向かい、その力を信頼し、尊重し、信じ、
「その殺す力の上に自分を重ねる」(黙って祭壇・即ち殺す十字架の上に
自分の身を横たえる)意志と祈りを必要とします。これが自分の
生まれながらの一切の力に対する十字架の適用です。

そしてそのような私達の日々の「十字架の力への信頼と適用」がある日
必ず自分の生来の強さや弱さが十字架の死のタッチに触れられ、
根本的に「神の前での自分の弱さ」を真に認識させられる所にさえ
私達を導いて行くのでしょう。

(とは言えその後も、私達は日々十字架の力を信頼しなければならない
のであり、聖霊御自身も私達が十字架に向かわざるを得ない、その時の
私にふさわしい環境を忠実に起こして下さるのです。ここに至りそれは
福音書にある「日々の私の十字架」とさえなるでしょう。)
以上が今朝、Ⅱコリント12章を読んで私が主から語られた言葉です。

「私の力は、弱さの内に完全に現れる」
「私が弱い時にこそ、私は強い。」
「私達生きている者は、イエスの為に絶えず死に渡されている。」
(Ⅱコリント4の11)

2008年11月10日月曜日

テントの手入れ

山に戻って少しボオーッとしております。下界の疲れですかね。
でも今日あたりから何かやらないと、と思っております。

ダッチオーヴンの方は順調ですよ。これを始めてから摂取塩分は
ホンと劇的に減ったので、先回少し高かった血圧が次回の測定で
どうなっているか、とても楽しみなのです。

何と言っても健康にとって大事なのは食事と運動です。本当を言って
その必要は私のような高齢者が一番なのでしょう。若い人は特に
意識しなくとも普通の生活をしていれば、若さでおおむねカバー出来る
からです。ですから若い人は、私の若い時のように、筋肉強化運動を
あまりシャカリキにやることなどない、と今の私は考えているのです。

山暮しをしていると必要な運動量など自然にしっかり取れる
のではないか、と誤解されがちですが、そんなことは決してありません。
やはり意識的な筋肉運動は必要なのです。そこで今始めて見ようかなと
思っているのが昨今脚光をあびているスロートレーニングです。
これだと、怠け者の私でもやれるかも知れません。スロートレーニング
これは私にとってどうも大きな朗報となりそうなのです。


最近特に思うのですが、キリスト者と言うのは基本的には「霊の存在」です。
ヨハネの福音に「その霊から生まれるものは霊である」とあります。
この後ろの方の霊と言うのは具体的に言うとキリスト者のことでしょう。
少なくともこの聖句は「キリスト者の本質」を表現していると思われます。
(にも関わらず、キリスト者は「霊」であるだけでなく更に
「霊的」になる必要があるのですが・・Ⅱコリント2章)

そして「本質的に霊であるキリスト者」は今この時代
「この世、この世界、時空」の中に遣わされているのだと思います。
(新約聖書に「遣わされる」は何と頻繁に出て来ることでしょう。)
そしてそれら「この世、この世界、この物質界」と直接に繋がっているのが
私の肉体と言うことになります。従って私は「この世に遣わされる」前に、
第一に先ず私の肉体の中に遣わされている、ことにならないでしょうか。

そのキリスト者の肉体を聖書では幕屋とも呼んでいます。従って
「霊であるキリスト者」は今しばしの間、この肉体と言う
幕屋の中に遣わされなければならないのです。
と言うことなので、自分の幕屋(今的には幕屋を「テント」と
言ってもいいのかも知れません。もしもそうであるならば私達は今
決して快適とは言えないテント生活の旅をしているわけです。)の
手入れや管理はとても大切であると言わなければなりません。
そうです、この時間・時空の中、つかの間のあいだの
私達の短い旅路を終える日までは。


「ことばは肉となって、私達の間にテントを張られた。」ヨハネ1の14
「私がこのテントを脱ぎ捨てるのがまじかに迫っている。」Ⅱペテロ1の14

2008年11月7日金曜日

ダラスの「あかしや番頭さん」から

Sugarさん、
こんな私のアホブログを読んでくれてありがとうございます。
そして、コメントありがとうございます。
福島県阿武隈山地、というのは、中学校の地理の授業で、白地図を
塗りつぶした、という記憶しかなく、また、福島県も実際に行った
ことがないのです。白河のある県ですよね。奥の細道の入り口ですよね。

山小屋、憧れますね~。日本の山は本当にきれいですから。ご招待まで
受けてしまって、うれしいです!うちの子供たち、本当に喜びます。
夫も、自然が大好きです。寝袋持って行きますね! 
山小屋ではタヌキとかイノシシを食べているのですか? 
なんて、きっとそばに村に一つの店があるのですよねぇ。

ここダラスは、都会の部類に入ってしまいますが、自然はまだ
まわりにあります。今、庭に家庭菜園を作っていて、今年は多少の
収穫があります。山小屋は庭には造れませんが、日本のひのきの
お風呂を庭に置きたいな、と夢みています。ヨシズを張って、竹でも
植えて・・・。いつ、できるのか??Sugarさんの山小屋のペースに
なりそうです。(笑)

貴Blogちょこっと読ませていただきました。 
第一印象は、sugarさんは「脳天気のイエス営業部員さん」です。
すべてイエス兄さんに任せてしまうと、なんともはや、平安というか、
「脳天気」の境地になりますよね。
Audio機器を買いなさいといわれて買ったら、あとからお金が入って来た、
という下り。うんうん!とうなずきながら読ませて頂きました。

また、楊姉妹の旦那様の大転回のこと。私も、うちの夫のことは、
神様に頼んでいます。日曜日には、使徒の18章を示されて、口で
言わないとだめなのかな、と思わされました。う~ん、です。

私のくびきは軽いとおっしゃるんだから、イエス兄さん、やってくれよー、
の心境なんですけど。まあ、やれっていわれるんで、やらなきゃ、
と思っています。
Sugarさんは、もしかして、もしかすると、牧師先生ですか?


あかしや番頭さんへ、
いえいえトンでもない、私はやたらに甘いだけの、
ただの初老のおじさんです。
実はついほんの先ほど5時間半車を走らせて「下界」から再びこの
山中に舞い戻って来た所です。この山中、今紅葉は13分咲きと言う
ところですかな。つまりもう葉っぱが結構落ちかけているのです。
でもこの時期の紅葉も悪くはないのです。特に小さなモミジが美しい。
今回の2週間の下界暮らし、新宿や品川あたりをうろうろして来ました。
時々は東京の風も悪くないですね。家族のいる実家は千葉県と茨城県の
県境の所にあって、皆さんあのあたりをチバラキ県と言います。

あかしや番頭さん、あなたのように遠い異国で(私などにはそう
思わざるを得ませんので・・)たくましくお母さんと奥さんをやって
おられるお姿を想像するだけでも実に爽やで私は何故か嬉しいのですよ。
と言うわけで日本の阿武隈山中からひそかに応援しているのです。
で、希望する人にはあなたの「ノビノビ生き生きブログ」を
紹介してもいいですよね。
それでは今日はこれぐらいにしておきます。
PS:
もしかしてイノシシやタヌキのダッチオーヴン料理も
悪くないかも知れない。

2008年11月4日火曜日

楊姉妹との交わりから(2)

既に亡くなられた御主人との若き日の生活の中で、彼女は多くの
辛く困難な経験をされたのだと言います。ですから
「もしもこの人が神を受け入れ、救われてさえくれたなら」と言う
彼女の思いはかなり深刻なものであったようです。そこで彼女は
夫が救われる為の総ての手段を駆使したのです。しかしながら事は
全くたやすくはありませんでした。日本の東京大学を卒業され
出世街道を突き進んでいた御主人は筋金入りの無神論者であった
からです。困難な日々は情け容赦なく続いて行きました。

しかし多くの努力にも関わらずある日、「どうにかして夫を
救いたい」と言う楊さんの万策は総て尽き果て、彼女は
主の前にくず折れたのです。その時に姉妹に語られた主の言葉は
次の様なものだったと言います。

「あなたは夫を自分のものだと思っている。しかし実は彼は
あなたのものなどではない。彼は私のものである。あなたは彼と
どんな関わりがあると言うのか。あなたは唯私に従って来なさい。
彼は私のものであり、彼に関する総ての責任を負うのは
私である」と。その時、楊さんは初めて夫に関する
総ての重荷を下ろすことが出来たのです。

間もなく、主は御主人の前に思いがけなくも、あり得ないような
環境を起こされ、遂に彼はそれを通してキリストを受け入れ、
完全に救われてしまったのです。

2008年10月31日金曜日

高山姉妹の父上、その後

突然入院された高山清子さんの父上92才のその後です。
お父様はおととい深夜、急に苦しみを訴えられ救急車で病院へ。
心不全、腎不全が原因で肺に水が入り、呼吸が苦しくなられたのだ
そうです。肺炎の恐れもあり、重篤な事態を迎える際には、もはや
過分な医療は行わず、自然死を選択すると言う遺族の意志さえ確認
させられたのだと言います。

その時、清子姉妹は正直に主に次の様に祈ったそうです。
「主よ、御心に従います。でもわがままを言わせてもらえるならば、
もうしばらく地上で、父と一緒にいる時間を与えて下さい。
私はまだ父と一緒にいたいのです」と。

その結果かどうか、その後 医師が投じたある薬の効果が顕著に現れ、
何と病状は急激に改善され、はやきのうの夜などは食事を、
普通の量の三分の二ほども食べらるまでに回復されたのだと言います。

皆様のお祈りを感謝します。
それにしても、改めて主のなさることは不思議と言わざるを得ません。
今後の高山家において、主は一体何をされるお積りなのでしょうか。

2008年10月30日木曜日

あるメールから(12)

台湾の楊姉妹が話されたことが、Rさんを通して私の所にも回って
来ました。実はこの地の数名の集まりの中で、そのことについて語り
合ったのですが、その効き目は即効的で、今まで十字架の実際を
学びつつあったあの二人が、それをキッカケとして加速的に
安息に入って行ったのです。

自分のことも他の人のことも主がすべて成して下さるから大丈夫、
ということが分かったら、色々と互いの問題を語り合うと言うことが
めっきり減って来ました。それで、これまでは週一で会っていたのですが、
多くの時間をかけて語っていたそれまでの問題がめっきり少なくなった
のだから、これからは証がたまってどうしても会いたくなったら会う、
という形にしようかと思っているところです。

今私にとっては日々の生活自体が即テキストです。そこで経験したことを
御言葉で確認するのです。「人となってくださった言葉である主」に
触れるのが、具体的で一番近道のようです。
最近まで、一応私が「教える」という役割でしたが、今ここの皆が十字架に
行き着いたら、「教える」が「教え合う」に変わりました。後の者が
先になる、というのが良くわかります。

「あまり平安で楽になって、もうのほほ~んとしてしまって、これで
いいのかな、と心配にさえなっている」というのが
今の私たち3人の状況です。今日Rさんにその話をしたら
「私たちにとって安息は新しいこと。慣れるまでこれも時間がかかるのよ」
と言われてました。本当にそうですね。

緊急連絡です

11月4日に行われる筈であった、高山家での集まりですが
延期になりました。と言うのは 本日清子さんの92歳の
お父様が体調を崩され、入院されたからです。
今詳しい病状等は分かりません。
続けて高山家の為にお祈り下さい。

食生活問題が解決した

先日、長年の腸の不調が突然治ってしまったことを書きました。
しかし「不思議」はそれに留まらなかったのです。

お腹が治ってしまったことに気づいた翌日 私は何故か深い恐怖感に
襲われたのです。それは、このままの食生活を続けるならば、
私の健康は大変なことになってしまうと言う恐怖感でした。でも
これは言ってみればとてもおかしなことではないでしょうか。長年の
お腹のトラブルが解決してめでたし、めでたしではなく、矢もたても
たまらない恐怖を感じたと言うのですから。
これは一体何だったのでしょう。

その恐怖の中で何とかして食生活を改善しなければ、と私は焦りました。
しかし山の男の一人暮らし、その上、不精者の67歳と来ればそれは
至難の業です。事実私は、長年の間それを何とかしようと試みては来た
のですがどうにもならなかったのです。それは主の前における私の
大きな課題であったとさえ言えるでしょう。超塩分の取り過ぎ、
甘いものはバンバン食べる、それに極端な野菜不足等、しかしそれでも
今更丁寧に調理する事など私にはとても出来ないのです、
と言うわけで、どこを取っても殆ど絶望的に見えたのでした。

しかし私は思い立って、あるキリスト者にこのことを相談して見たのです。
そうしたらその方は、色々な食材を蒸し焼きにする方法を
伝授されたのです。その時私には何故か「あそうかそれなら
実に簡単じゃないか」とパッとひらめくものがあったのです。それは
小屋にダッチオーヴンがあったせいでもあったのですが・・。

と言うわけで早速実行にかかって見ました。
そうしたら、何と何とそのダッチオーヴン使用は総ての私の問題を
いとも簡単に解決してしまったのです。これは驚きです。料理は超簡単、
水も塩もしょう油も砂糖も入れず、ただ色んな食材をナベに放り込むだけ
なのですから。これは料理などと偉そうに言える代物ではありません。
でも味はどうかと言うと、これがなかなかイケルのです。と言うのは
色々な食材のウマミが総て食材とナベの中に閉じ込められるからです。
味が深いから塩分も何も殆どいりません。食べるとき一寸酢醤油につける
だけでとても美味しいのです。

「突然腸が治る→恐怖感を覚える→相談→ダッチオーヴン使用」の
全工程がホンの2、3日の間に起こり、私の食生活の問題は
たちまちの内に総て解決してしまったのです。それにしても
我ながらホンとに不思議な数日でした。
不精をかこつ一人暮らしの男性諸君、
あなたも一つ、ダッチオーヴン「料理」をトライしてみたら?

2008年10月29日水曜日

高山家、集まりの再開

「今度 しばらく中断していた高山家での集まりを再開したいそうで
多分それは今月末か、来月初旬になることでしょう。皆さん
その時には、高山家の方々に会いに、一寸遠いんですが千葉県野田市、
木間ケ瀬までお出でになりませんか。」
と書いた「高山家、その後」(10/17)の続きです。


その日取り等が決まりました。
日時:11月4日(火)です。
来られる方は東武野田線の川間駅に、12時にお出で下さい。
車で迎えに上がります。東武野田線は柏~大宮間の路線だそうです。
(柏は上野から常磐線の快速で25分くらいかな?
川間駅から高山家の近くまでバスもあるそうですが。)

「今回、昼食は高山家でぜひ接待したい」との清子さんの
お言葉です。(この点、皆さんご心配なく、と言われます。)
人数が知りたいと言うことですので、
sugarまでお知らせ下さいませんでしょうか。
よろしくお願い致します。

2008年10月26日日曜日

死は絶対的な分離です

聖書において死は避けて通れない重いテーマです。しかし
「死についての適切な認識」によって人は素晴らしい喜びへと
導かれるのです。キリスト者は本来「生きながら死ぬ、と言う特技」
の持ち主である筈です。ですから人はどんなことがあろうと「自殺」
などと言う バカなことをする必要は全く無い筈です。(何故ならもう
死んでいるからです。)キリスト者にとって 死は日常茶飯事で
あるべきです。日々死ぬことによってキリスト者は その生を素晴らしく
生かし出すことが出来ます。死こそ神によって与えられた
完全な解放への門だからです。

物質的な死(普通の死)は霊的な死の絵です。
ですから普通の死を観察することによって「積極的とも言える」
死の素晴らしい意味を知ることが出来ます。

・普通 死は生の停止であると言われますが、実はそれ以上に
死は分離です。(また当然死は消滅でもありません。)生きた体が死ぬと
直ちにそこに「分解」と言う動的な現象が現れます。それは何かに
向かって動き出すのです。その何かとは 更に大きな、分別、
分別、切り離され、除去、隔絶です。

・人は他人の死に接する時、当然どうしようもなく「別れ」「死去」を感じます。
だから葬儀のことを「告別式」と呼ぶのです。人はその時、決定的な別離、
手を伸ばしても決して触れることの出来ない所へ彼は逝ってしまった、
と言う実感を禁じ得ません。だから死の本質はやはり 隔絶なのです。

・しかし分解は更に進みます。なぜなら死体は棺に入れられ(入棺の時
も別離はもっと実感されますが)死体は墓に行くからです。そこで
行われるのは埋葬です。既にこの世に離別した死体は更に埋葬され
なければならないのです。これは離別の上塗り、「その向こうの深い離別」
とも言えるでしょう。この時点で この世界と「この世に存在する総ての力」
でさえ彼との、決定的な深い分離を認めざるを得ないのです。
(サタン、邪霊はそれを認めています。しかし、人々はサタンのウソを
心から信じるのです。ウソであってもそれを信じるとき、そのウソの世界は
その人の中ではある種のリアリティを持つのです。)

・まだあります。更に人は墓から黄泉へと進み逝(ゆ)くのです。墓は
黄泉の入り口に過ぎません。人は正直 目の前にある石で作った墓を
前にして、彼は墓の中で眠っているとは感じません。そこで、感じるのは
彼との大きな大きな距離感です。なぜなら人は墓の遥かむこうに
黄泉と言う確かな存在を覚えざるを得ないからです。

・(実は黄泉の向こうには更に決定的に深刻な隔絶・第二の死がある
ことを聖書は告げるのですが、それは別の機会に回しましょう。)

彼は今、人間世界の諸々のきずな、総ての宗教的な自作や他作の
規則や規制、またこの世の力、時空世界、物質世界からさえ
遠く遠く離れ去ったのです。そこから、彼を呼び返す手段は
もはや絶対にあり得ないのです。


以上の描写の目的は、積極的な意味で、キリスト者が所有する
「キリストと共なる死」による解放、へと私達が導かれるためです。
キリストは私たち総てを包含し 肉体においてさえ、確実に絶対的に
死んだのです。それは神御自身が用意された既成事実です。ですから
既に死んでしまって墓の向こうに行ってしまった私達に 今さら影響を
及ぼすことが出来るものは何もありません。
なぜならあなたは今死んでおり、既に埋葬され済みであるからです。
(埋葬がバプテスマの真の意味であり、それ以後のクリスチャン生活は
バプテスマの実際を土台として初めて成立するのです。)

以上の事実は、「この事象世界に見られる普通の事実」の遥か上位に
ランクする神の「真理」です。その格差は文字通り天と地なのです。
あなたはどちらの事実を信じるのでしょうか。私たちが もしも この神が
達成された「既成事実」を 受け入れ信じるならば、そこにある動かざる
永遠の霊的な真理が あなたの時空にさえ降りて来て、いずれ あなたの
実感にも深い影響を及ぼすことを知るでしょう。あなたは この世と、また
その中にある人間関係から、種々の規則や 「ねばならない」から遠く遠く
隔絶されている と言う 深く静かな安息さえ 覚えることが出来るでしょう。
(その実感とは、「キリストと共に黄泉に到達したあなた」に必然的に訪れる
「キリストとあなたの復活」から 生じるものなのです。)

最後に、神の権威によって、今日「サタンの仕事場」は「この時空
(主として地上)とその中の事象内に」厳しく限定されております。
ですから、そのサタンの世界、即ち時空とその中の総ての事象から
遠く遠く切り離され、完全に縁の切れているあなたに
サタンの手など届くはずがないのです。これが神の真理です。

「私達を強力に縛り上げている総てのもの」から私達を完全に分離し
解放するもの、それこそが聖書が告げる「キリストの死」、十字架です。

2008年10月25日土曜日

あるメールから(11)

メール9の続きです。

「・・・世間にも立派な人、素晴らしい人が沢山おります。それに引き換え、
キリスト者である自分はどうでしょう。私はこれまで唯うつむくことしか
出来ませんでした。
また、自分の周りで起こる悪いことが自分のせいに思ったり、自分を
責めたり、おびえたりすることも多かったのです。そのこともあって
これまで、人の間に出て行くことが出来なかったのです。
でも、先のメールに書いたようにこの度、主が直接教えて下さったこと
によって、私の見方が全く変わってしまったのです。

人が生まれつき持っているのものは、たとえそれが素晴らしいものに
見えたとしても、神の目にはアダム来のもの、アダム起源のものにしか
過ぎません。神の目には唯一「十字架を経たものだけ」が尊いのです。
このことはこれまで何度も聞いて来たことなのですが、自分のものに
なっていなかったのです。客観的に聖書の知識を持っていることと、
その真理を主観的に知る ということは全く違うのですね。

私には「生まれつき良くないもの」が多いとしても、キリストの十字架
によって、また主の私に対する取り扱いによって、私でさえ「新しい人」を
表現することが出来るのだと分かったのです。しかも聖書には私を
完成して下さる、とまで書いてあるのです。これには具体的に
ヤコブの例もありますから、大いに期待していいんですね。
今私にはヤコブのようにイスラエルに変えていただけるのだ、
という希望があります。

そしてその為には主に信頼していればいい、と言うことが
分かったのです。主に任せているだけでよいだなんて、
これは何とホッとすることでしょう。
また今は、良いとか悪いとかにあまりこだわらなくなったので、
心がとても軽くなったことも事実です。」

新たな心配

10月に入って、一寸不思議なことがありました。
それはお腹の具合がぐっと良くなったことです。
私は昔から腸が弱く朝、食事を殆ど食べられません。食べてもバナナ
一本くらいがせいぜいで、それ以上食べると、たちまちお腹が
ゆるくなってしまうのです。そして深刻なことに、その悪い傾向が
年齢と共に徐々にエスカレートする傾向が明らかに。これは困った、
きっと私はお腹で死ぬだろう ななどと真面目に考えていたのです。

ところがです。この間の来客の際にハッキリしたのですが、相当
シッカリ 朝食が食べられるようになっていたのです。これは驚きです。
私の体に一体何があったのでしょうか。

しかしこうなると別の心配が出て来るのです、それは食欲。
お腹が治ったせいか、今ご飯がおいしくてたまらないのです。
私は秋田出身ですので 生まれつきの?物凄いしょっぱい物好き。
イカの塩辛や塩ジャケ、辛い味噌汁など大好きです。「ショッパイ
ものがないと生きた気がしない」と塩辛いものを 毎日バンバン
食べるのです。不精男の山の一人暮らし、買い物は面倒、
調理は更に面倒と、長生き出来ない人間の条件が
ずらっとそろっているのです。

ですから運動をどうするかに加えて、これはどうしても、食生活の
改善をはからなければなりません。今度下山したら、
真面目に糖尿病食の本などを探してみたいと思っているのです。

今朝のメニュウは、バナナ一本と牛乳、そして少量の「食べる小エビ」に
抑えましたよ。食べる小エビは少し塩分が強すぎましたのでネ。

2008年10月24日金曜日

あるメールから(10)

*直接主によって語られることの効果*
ここに一人のキリスト者がいます。この方は以前 あるキリスト者の
集まりの中で深く傷つき、ついには恐怖さえ覚えるようになってしまい、
どんな 他のキリスト者の交わりにも出席出来なくなってしまったのです。
これはその方のメールです。


今回「例の問題」のことで主に聞きました。そしたら何と主は私に
直接 次のように語られたのです。
「永遠において、絶対的にあなたの古い人は死んだ。
しかしあなたの現象内においては、いまだに変えられていないアダム
来のものが現れるようなことがあるかも知れない。しかしそれは時空内
での私の取扱いがまだである、ということに過ぎない。ですから
あなたは今私に信頼し、私があなたの時間の中でそれを追い払う時を
ただ待てばよいのです」と。

この主の直接的なことばに信頼を置きます。
恐れなくてもいいんですね!やっとトラウマから抜け出せます。

2008年10月23日木曜日

今日も分別作業です

今日は曇天、紅葉は45パーセント、見事な阿武隈
イエローワールドがロフトの南窓に広がっています。

今日の作業は地下の片付けです。イヤー捨てるべき物の多さに
今更ながら驚きます。「私にとっての要らざるもの」の区分、仕分け作業、
一箇所へのまとめ置きのほか、近い将来、その全部を焼却しなければ
なりません。ホンとにヤレヤレです。
これは聖書的に言うと十字架とそして墓であり、黄泉ですネ。

キリスト者は罪(不潔なゴミ)の為のキリストの御血の適用の他に、
この死の力の適用を必要とします。それはキリスト者の毎日の経験で
あるべきです。御霊の促しに従い、自分と自分に付随する一切の中で
「永遠と言う価値に適合しないもの、復活にそぐわないもの、即ち
未だにキリストの十字架を経過していないもの」全部を、時空を超えた
分離する力を持つキリストの死の現場に持って行き、それらを
キリストの死の分離する力の中、即ち水の中を深く くぐらせる経験を
しなければなりません。だから、キリスト者にとって必ず必要なものは
「証する御霊と、水と血です。」(Ⅰヨハネ4の8)

もしも私が今日その作業を怠るならば、いつの日か今度は「神にとっての
要らざるもの、即ち死を経過していないもの一切」を焼却する為の水ならぬ
火が「強制的に」私に及び、私の中の「新創造でないもの総て」を
焼却しにかかるでしょう。(Ⅰコリント3章)従って今日の水、即ち十字架と
将来の火は原則的には同じ働きをするのです。相違は時期です。

だから私達は今の内に、自分の意志を用い、水の中にある死の力によって
自分を分別する必要があるのです。この御血と水だけはキリスト者自らの
意志によっていつでも適用が可能です。従ってその機会を逸することは
本当に残念なことであり、永遠の時間から見るとき実に甚大な損失を
こうむることになるのです。バプテスマは 自ら立って行うべき証しです。
それ故にキリスト者は毎日、バプテスマの生活 即ち 自ら立って
キリストと共に水の力、即ち死の中へと入って行く生活を送るべきです。
バプテスマは絶対的にキリスト教入信儀式などではなく、
その霊的な実際を 日々わが身に適用しなければならない
キリスト者にとって絶対に欠かすことの出来ないものなのです。

あ、すみません、話がウッカリ、トンでもないところに行ってしまいました。
さ、それでは、今日の分別作業に取りかかることに致しましょうか。

2008年10月22日水曜日

あるメールから(9)

ここ数ヶ月苦しんできた技術課題の解決を示唆する実験データが
やっと先ほど得られました!更には我々の試作品を使用したら
他社品では絶対果たせなかったある重要特性を満足したという知らせが
先ほど届きました。本当に嬉しいです!あぁハレルヤ、主に感謝します。

ここしばらく何をやってもうまくいかず、八方ふさがりの状態でした。
主よ、私にはできません。私は死にます、だからあなたがやってください、
という祈りとともに、主よ、あなたは本当に存在しているのですか?
もし本当にいるのなら何か私に示してください、とも祈りました。
ここ数日、本当にあえいでいたのです。
その思いは昨晩帰宅する途中にピークに達しました。
主よ今すぐ示してください!と迫ったのです。

すると、それから1時間もするかしない内に二つの電話を通して
主から答えがあったのです。あぁハレルヤ、主は
絶妙なタイミングでその答えをお示しになったのです。

私たちは、このようにして生と死の循環の中を生きるのでしょうか。
復活の命は私たちを常に十字架へ十字架へと引き戻し、そのようにして
生と死、死と生が循環し、キリストへと同形化されていくのでしょうか。


sugar:
この兄弟はある大会社の研究部門のトップにおられる方です。
その研究開発に要する経費は月1・5億円、このプロジェクトを開始して
今までの3年間で費やした総額は40億、50億に上ると言います。

しかし私が最も感動する点は、この兄弟は仕事とキリスト信仰を
一つの中で進めていることであり、彼は「日本のキリスト者サラリーマンが、
真に仕事の只中において、もし主にあずかることがないとするならば、
日本に未来はあり得ない」と断言されている事です。

原点に戻らされた

感謝です、今朝
「普通に聖書を読んでいれば、みことばは、私たちを・・導いていくわけ
である。私は常々思うが、超霊的なハイパー信仰よりも、素直な心と
普通の読解力のほうがずっと大事である。きちんと話を聞いていれば・・
難なく課題をクリアできる。」(ハイパー:過度の、超越した)と言うある人の
言葉に接し、原点に戻らされたのです。


確かにそうです。
そのようにして単純に神のことばを信ずることが原点である筈です。
パウロの言葉は難しいと言えば難しいが簡単と言えば簡単です。
だから、簡単だと言えばよいのです。最も大切なことは、キチンと聞いて
その通り信じ、実行することです。

2千年前の多くの無学な人々(新約聖書の主役は実は彼らである)も、
時々回って来るだけのパウロの手紙の朗読を耳を凝らして聞いて、
単純に信じただけに違いないのです。「高度」で複雑な現代に生きる
私たちが彼らに劣る点はただその一点だけではないでしょうか。
しかしその小さな一点は極めて大きいのです。

「あなたがたは既に死んでおり、あなたがたの命は、キリストと共に、
神の内に隠されてある」と言う超難解とされるパウロの言葉も、
「単純に信じた」彼らは別に「難しい」とは感じなかったのでは
ないでしょうか。「あなたは死んだ」と神の言葉は言うのだから
「あそうか、私は死んだのだ」と信じ、「私は死んだのだから、この世界の
一切とはこれで総ての縁が切れた、ああ嬉しい、よかった!」と彼らは
ただ大きな解放感を感じた筈です。(その上で彼らは改めて、天から
地へ、彼らの肉体の中へ、この時空の中へと遣わされたのですが・・。)
また彼らは単純に「私の現在は神の中にある」と信じ、深い喜びを覚えた
ことでしょう。その喜びから発した光だけが 当時の悪の暗闇をあばき、
この世界を変えて行ったのです。

信じることこそ「言われたことの内容、その実質総て」を自分の胃袋に
入れる事が出来る、誰にでも出来る超簡単な方法、原点です。

2008年10月21日火曜日

あるメールから(8)

以下は「あるメールから(7)」の続きです(sugar)

この間買ったオーディオインターフェイスのことなのですが
実は79800円しました。
大きな買い物でしたので、貯金高と相談しながら慎重に
時期を見て買ったのです。ところがです、
買った次の週、教会のある姉妹が(この姉妹はアメリカから
帰国したばかりで、最近の私の事など当然ながら全く何も知りません)
私に個人的に献金をして下さったのです。その額は10万円でした!
これはオーディオインターフェイスの値段を遥かに超えているでは
ありませんか。主が買うように促された物は、主がその買うお金を備え
さ らにオツリが来るようにさえして下さったのです。

紅葉4分咲き

今 山は紅葉4分咲きと言った所でしょうか、大工仕事をしながら、
日に日に染まり行く森の色を楽しんでいます。と言うわけで、つい
ブログにも御ぶさたしてしまうのです。

小屋の整頓に励んでいます。今、地下室の一部に断熱材を取り付け
ています。この作業の本当の目的は、実は今地下の整理だなを占有
しているたくさんの断熱材を除去することなのです。地下の物置棚が
空けば、そこに他の多くの物を整理してしまい込めます。
整理整頓、これは快適空間の「創造」の為には欠かせませんね。
(実は神様もそれをなさっているのでしょう、宇宙の整理整頓を!)

南デッキに2バイ4だけでベンチを作りました。これはそれまで
その場所にあったベンチの背もたれのせいで、ダイニングの席に座った
際に、せっかくの外の景色の一部が隠れてしまうと言うので、背もたれの
無いベンチがどうしても必要となり、やむなくおととい製作したのです。
不思議かつ意外にも、美しく仕上がって一人ほくそえんでおります。


キリストの十字架の効力の及ぶ範囲と深さについて考えています。
実際のそれは一般に言われているものとは天地の相違があるようです。
これは実に驚くべきことです。


(上記のこととは全く別ですが)
キリストの十字架とは霊的な死の力であり、キリストの死とはむしろ積極的
とも言い得る徹底した分離、隔絶の力です。もしも私たちが、キリストの
十字架をして、「自分や自分に固着する多くのもの」にその分離する強力な
力を及ぼさせないならば、決して復活の力が私に及ぶことはなく、従って
「それらのもの」を私達が支配することなどあり得ないでしょう。逆に私達は
それらのものにいつまでも支配され続けなければなりません。

問題は この世の多くのものに「触れるか触れないか」などでは決して
無いのであり(多くの場合 むしろそれらに触れるべきです)支配されるか
支配するか、です。いなるものであれ、キリスト者がキリスト以外の何かに
支配されている姿は惨めであり、そこに真の自由はありません。
キリスト者の特徴は総てに対する王としての美しい姿です。
それは禁欲主義などとは全く無縁なものであることは明らかです。


それから、旧約聖書に出てくる「高きところ」についても思い巡らしています。
直感的にはそれは、今日至るところに見られる「礼拝センター」の予表では
ないのかな、と考えます。初期において高きところには正当な地位があった
のですが、宮の建造後においては「この世の霊」に支配されるものとなり、
徹底的に破壊されるべきものとなってしまいました。(しかし多くの
王たちは破壊せず温存した)

今日もしも「礼拝センター」と言うものがあるとするならば、それは時空を
超えたものであり、当然サマリヤでもエルサレムでもありません。即ち、
断じてあの場所、この時間ではなく、また あのメッセージやこの指導者
でもないのです。それは一人一人のキリスト者の霊
(キリストと一つとなった霊)であると思います。

神にとって「今はどのような時代であるのか」、私達がもしもそれを
錯誤するならば、キリスト者と言えども、いずれとんでもない
事態に遭遇してしまうことでしょう。
この「高きところ」と言う絵よって神は一体何を私達に告げておられる
のでしょうか。これについては更なる検証が必要です。


28日に山を下ります。

2008年10月17日金曜日

高山家その後(2)

5月から7月にかけてこのブログで紹介したあの「高山家の近況」です。
大変な心臓手術を乗り越えられたあの貞三氏、ある会社からゼヒ
わが社へ と招かれ、今そこで毎日元気に働いておられます。
総てをなくしてしまう筈だったのに、かつてキリスト者が集ったあの
立派なお家はそのままであり、そしてこれからも高山家のものです。

最近不思議なことがあったそうです。何故か完全に忘れておられた
ある年金にフト気づかされ、この度その4年分の相当額を
まとめて受け取られたそうです。ご夫妻、本当に手を取り合って
子供のように喜んだと言います。

以前高山家の風呂でバプテスマを受けられた92歳のお父様が今
二階に滞在しておられ、朝おりて来られると必ず「ああ今日も生きている、
あり難いことだ」と言われ、次に今度は窓を開け、外に向かい
何とかしわ手を打って!神に感謝をするのだそうです。

総てを失いすっからかんになることは、ある意味幸いです、「主よ私達は
全く無力です」と言うときこそ真に神が力を出すチャンスであるという「法則」
を掴むことが出来ました、これが今の清子姉妹の感想だそうです。
客観的に見ると極めて困難な状況であっても、その中を主と共に経過して
行く時には、それが凄く大変な状況であるとは感じられない、むしろ淡々と
スースーと時間が過ぎて行ったのです、と清子さんは言われます。

今度 しばらく中断していた高山家での集まりを再開したいそうで
多分それは今月末か、来月初旬になることでしょう。
皆さんその時には、高山家の方々に会いに、一寸遠いんですが
千葉県野田市、木間ケ瀬までお出でになりませんか。

2008年10月15日水曜日

あるメールから(7)

半年も前から「主に促されていたもの」をついに買いました。
オーディオインターフェイスといいます。音をパソコンに取り込む機械です。
私が音楽学校に通っていた頃はこのようなものは無く、私は今使い方さえ
知りませんし、これを買ったところで一体何に使うのかも分かりません。
しかしこれが目の前にあると不思議な平安があるのです。
10/15日のブログ↓からとても励ましを受けました。

4.そして主から反応があり、こうするようにと言うある具体的な指示が
与えられたなら、決して「何故そうしなければならないの?」などと理屈を
言わずに単純にその主の指示に従うのです。これは聖書に示されている
原則です。ヨハネ2章に出てくる「水をくんだ手伝いの者達」もつべこべ
言わず単純に御言葉に従いました。その前に、マリヤは少し理屈を言った
のですが、イエスは神である と示され主に信頼しました。
これらの単純な人々の単純な信仰が、この「最初のしるし」を通して
主の栄光を地上にもたらすことが出来たのです。

あるメールから(6)

お久しぶりです。時々ブログを読んでいます。
「難しい??」と思うのがぽつりぽつり...なんて最初は思ったのですが、
ある時から、あっ、読める!!となったのです。分かったとはまだ
言えないけれども、私なりに「うんうんなるほど」と読めるのです。
励まされたもの、何度でも読みたいものは、ワードの方にちょっと
コピーしてゆっくりと読み...楽しませていただいてます。

読んだ中で一番心にしみほっとしたのは、2007.10.20の 
「何故なら..」と書いてあるところでした。クリスチャンは素敵、
そして(^^)素敵な神様です(^^)。
 
8月から家庭の中で、いろいろ、いろいろと起こり、その度に
主が私の中で生きる、と言いたい所ですが実は、死んだはずの古い私、
私の亡霊が暴れ、漂よい...ヒステリーを起こし、また鬱が続きました。
そんな中、先週新聞記事で非定型ウツ病というのの存在を知り、
ヤフーのネットで調べたら、自分のあれこれに怖いぐらい
ぴったり当てはまっていました。
 
イザヤ43:18-19に「過ぎ去ったことを思い出すな。過去のことを
思い出すな。見よ、私は新しいことをする。」とありました。
主が「新しいこれから」を用意して下さるのです。
「主よ、信じます!」今はまだはっきりしていないけれども、焦らず、
「主のことを知り、主に信頼する、主に生きていただくこと」に集中する訓練
をして行こうと今改めて思っています。
今主と出会えていてやっぱりよかった、と感じます。

自己判断せず病院に行くべきなのかな...と思ったりもしている
のですが.. 「必要ならばいい医師に会わせて下さい」と祈りつつです。
鬱々した気持ちが 沸いてくる時は、「サタンよ去れ!!」
と始めている今日この頃です。


「主が新しいこれからを用意して下さる・・ 主よ、信じます。
・・必要ならばいい医師に会わせて下さい」と言うあなたの言葉に
アーメンです。

この度、楊姉妹が強調されたことの一つが次のことです。
1.ことあるごとに主に聞くこと。それは大きな事件が
起こったときだけでなく、
日常のささいな出来事においてもです。

2.実の所、御こころをキリスト者に示すことは主の切なる願いなのです。
ですから、私たちが主の御旨を知ろうとしてヤキモキする必要など
ありません。それは主の役割です!従ってあなたがなすべき唯一の
ことはあなたの発想から事を始めることをやめ、事ごとに主に聞く事です。

3.そして真に主に聞くときに、主は必ず応えられると信じ、主の応えを
待つことが大切です。なぜなら、聞くと即刻応えられるとは
限らないからです。しかし主は必ず応えられると信じるのです。

4.そして主から反応があり、こうするようにと言うある具体的な指示が
与えられたなら決して「何故そうしなければならないの?」などと理屈を
言わずに単純にその主の指示に従うのです。これは聖書に示されている
原則です。ヨハネ2章に出てくる「水をくんだ手伝いの者達」も つべこべ
言わず単純に御言葉に従いました。その前に、マリヤは少し理屈を言った
のですが、イエスは神である と示され主に信頼しました。
これらの単純な人々の単純な信仰が この「最初のしるし」を通して
主の栄光を地上にもたらすことが出来たのです。


楊姉妹の若かりし頃、彼女の尊敬する姉妹が上に述べたような信仰を
持っておられたのだそうです。しかしその当時、楊姉妹自身は「それは
私には出来ないこと」と思っていたのです。

しかしある日、楊姉妹は決然として次の様に主に祈ったのだそうです。
「主よ私もこれからあなたの御旨を知ることを求めます。そして
求めるならば必ずあなたは私にさえ応えられると信じます」と。
その日から彼女の生活は一変したのです。何故なら
その日を堺に 今日に至るまで、主は彼女の信仰に
明確に応え続けられて来たからです。

この度の山小屋滞在の間、私達は少しですが、姉妹のその様な実際に
接することが出来ました。ある些細と見える出来事を通し、主が彼女の
「些細と見える祈り」に忠実に応えられた出来事を
私達も共に目撃することが出来たのです。

2008年10月12日日曜日

楊姉妹との交わりから(1)

聖書の福音書に、
イエスが弟子達の足を洗われた記事が出て来ます。
多くの場合、これは「キリストの弟子達は互いに対して愛と謙遜を示すべき
であるという教え」と理解されているようですが、実はイエスは意外にも
次の一点に私達を導きたいのではないでしょうか。即ち

第一に私たち人は神に対しても人に対しても良き行いや奉仕など全く
出来ない存在であると言う事です。しかしながら、何よりも先ず
私がイエスによって十分に奉仕をしていただくという経験をするならば、
その時に初めて神と人に対する「私の奉仕」が可能となるのです。
ですから私達は、イエスによって仕えていただくべきです。即ち
先ずはイエスによって私の足を十分に
洗っていただかなければならないのです。

もしもその経験が十分であれば、私達はいつの間にか
自然に、そして喜びの中で他の人々の足を洗っていることでしょう。
それは主イエスがあなたを通して人々の足を洗っている
ことに他ならないのです。

2008年10月9日木曜日

あるメールから(5)

*どちらか一つです*

今日は雨です。
さきほど主の前で思い巡らしていたら、ハッと気付きました。
私たちは キリストと一つか、敵と一つかの状態のどちらかしかない、
その中間とか他の状態はない、ということ。
何と多くのクリスチャンが このことを見ていないか、無視しているか、
ということを認識しました。
私も含めて批判家や評論家になりすまし、自分だけは他のクリスチャン
とは違うと密かに思っているのです。そう思っている当の本人が敵と一つ
になっているということに気付いていないのです。そしてまた批判した
相手が自分に含まれていること、つまり他人を批判しているということは
実は自分を批判しているということに気付いていないのです。
もっと言えば自分と敵は別物だと思っている。しかしその時は実は
敵と一つになっているということです。自分の中を見た瞬間、
つまり自分を自分に重ねた時、実は敵と一つになっているのですね。
しかし自分をキリストと重ねた瞬間、私はキリストと一つなんですね。
いやいや奥が深いです。


今遠来のお客様3名と雨の山小屋で過ごしております。
一人はあの87歳の姉妹。いやいやお元気です。精神面の衰え
など全く感じ取ることが出来ません。肉体面においては、数年前 
進行の浅くない乳がんを患われたのですが「生きるも死ぬるも
大いなる益ではないか」と開き直って主に委ねたら、すっかり安心
してしまい、ますます元気になって 今に至っているのだそうです。
(仙台空港まで全くお一人で飛んで来られた)
台湾の複雑な政治情勢についても話題になり「この面に
おいてもキリスト者の真実な信仰が神を動かす筈である」
と堅く信じ活動しておられるのだそうです。
この後 交わりはどう展開するのでしょうか、とにかく
とてもスリリングな日々です。

2008年10月5日日曜日

あるメールから(4)

1.
集会が毎月開かれますが、私は口を開くことが少なく、今回も何も語る
ものを持って行くことがないな~って、心の中でぼやいていました。
所が、集会の朝、出かける前に、ある姉妹に電話したところ、その話
の中で、主がして下さったある事を思い出したのです。これで今回の
集会で語ることができるって嬉しくなりました。

集会での最後に、ヨハネ9:3、 イエスは答えられた、「この人が罪を
犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるため
です」が取り上げられたのです。それで教えられたのですが、何か事を
起されるのが主なら、それを治める、解決するのも主なんですね。
何か事が起こると、まるで嵐でも来たように、おろおろしたり、自分で
「何とかしなくては」と方法を模索したりしがちですが、主は「その事件」を
ご自分で統治し、御自身の栄光を表したいと思っておられるんですね。
これからはこの原則を心にしっかりと受け止め、私はただ主の
なさることを見て、主を讃美する生活を送りたいものです。

2.
先のメールで、「主が事を起こされ、主が治められる」という原則を
教えられた と書きました。それを知って見ると、今は問題が起こることを
あまり恐れることが無くなり、むしろ「これな実は主を経験するチャンス
なのだ」ととらえることが出来るようになりました。
もちろん、それは自分を暴露されるためでもあるのですが・・。
それを思うと、何だか楽しくなってきました。クリスチャン生活はただ
主を楽しむことであると分かったような気がするのです。今までの私の
生活はただ、捧げものとしての主とか、よき地の産物としての主を
経験する事とだけ、とらえて来たように思われるのですが、これからは、
それ以上に大きな意味のある(適当な表現が見つかりません)
「事の総て」をなさる主を経験できるのだ、と今わくわくしているのです。

今回の前の集会で教えられたことによって、古いアダムの影響が残って
いる自分の魂に引きずられることもグーッと少なくなって、私は今
主とひとつ、私は「キリストの命そのもの」との意識が強くなり、更に
今回の集会で教えられたことを加えて、自分が自分を働かす必要などない
ことが分かったように思われるのです。
今私は、主の働きを楽しむ生活を心に刻むことができ、
クリスチャン生活の楽しさを少ーしだけ見せられているのです。

2008年10月1日水曜日

ある便りから

東京も今週からすっかり秋めいて、長袖が必要になりました。
今日写真の学校第一学期が終わりました。とてもよかったと思います。
この学校、「プロの写真家への道を開いてください」と祈っていた時に
スッと開かれてしまったものなのです。特にライティングの技術は
独学では無理だと思ったので。第二期はまさにライティングの授業で
今年末まで続きます。他にも主に導かれているもの、
私の切なる願い、その他いろいろです。

また秋に一回行けたらと思っております。
あのストーブの火に実際に当たってみたいですね。


「スッと開かれてしまった」、いいですね。きっと何かあるのでしょう。
私達はただ「何かに乗っかるだけ」なのですから。

どうぞ、どうぞ、薪ストーブ、あたりに来てください。
居間がだいぶ変わりましたよ。きのうイモクボさんという人が
森林組合の仕事の帰りに寄ってくれて、3500円で買った食器戸棚を
これも作ったばかりの大きな棚の上へ持ち上げくれたのでした。
これで、今まで使ってきたボロボロの食器戸棚が撤去出来るので、
LDKが大分広く見える筈です、これ今日の大きな楽しみなのです。
所がです、こうなると案じた通り、食器戸棚の背が高過ぎてやや
圧迫感を与えます。「圧迫感、偉そう」、こう言うのいけません。
これは困ったな、後日ヤッパリ、下の棚の足を切ることになるのでしょうか。
今度小屋に来られたらあなたもその圧迫感を感じるかどうか、
薪ストーブにでもあたりながら見てみて下さいませんか。

食卓ですか、出来ましたよ。でも何とこっちの方は一寸背が低過ぎる
のです。で、今日手を入れる積もりです。食卓の高さと言うのは
意外と難しいものなのです。

今日はもう一つ、ロフトの客間のむき出しの断熱材を隠す為に
石膏ボードを張る積もりです。あ、やはり降って来ましたねー。
もうこれ、冬の予告の冷たい雨です。

それでは最後にイモクボさんのブログを紹介します。今度来られたら 
彼の本格ログの習作・「美しい物置」を見に行きましょう。
http://white.ap.teacup.com/imokubo/

2008年9月26日金曜日

集成材のお勧め

今山に来ております。
山、寒いですよ。きのうは小さなストーブを焚いたほどです。

さてこれまで何度も紹介した台湾の楊さんですが、今、
10月初旬に本当に来られる気配になっているのです。と言うわけで、
現在 工事に一段と気合が入っていると言う次第です。

納戸ですか、ハイ出来ましたよ、ほぼ予期した通りでした。納戸という
ものはこうでなければなりません、と言えるくらい沢山ものが入るのです。
その分、家の他の部分がスッキリして、こういうのは実に気分がいい
ものです。やはり家は「人の為」ですよね、当たり前ですが。

所が所が、この小屋、88歳の楊さんに泊まっていただく和室っぽい
部屋を通らないとあの納戸には行けない全体構造になっているのです。
「これは困った」と考えたあげく、和室入り口から、納戸に向かう場所
に目隠しのカーテンをつるすことに したのです。というわけで、今回
下山する前にそのカーテンを下げる四角い木枠を通路の上に作った所、
何とその上も相当広い物置スペースになってしまったのです。と言うわけで
この小屋 このところ、にわかに収納が増えてしまったのです。

今日はいよいよそのカーテンを木枠に取り付ける工事になります。材料は
全部 購入済み。これらの材料、実に「リーズナブル」な値段でして、
カーテン3枚、カーテンレール2本、その他の小物全部が、
「本来の用途以外の材料」で事足りたのでした。こう言うやりかたは
第一、大幅な経費削減に繋がりますし、また考えてみると、物と言うのは
要するに 目的にかなっており、そして美しく仕上がっていればそれで
よい筈です。とにかく 「カーテンと言うものはこうでなければ駄目です」等と
言うしたり顔の世間の常識や、お仕着せには要注意です。物事と言う
ものはなんでも、「自分の頭で原点に戻って単純に考える」のが一番、
と私は思っているのです。

カーテンが出来たら、あしたあたりから食卓作りです。今回山に戻るとき、
ひたちなか市のジョイフル本田で、2.1m×60cmの長ーい板を買って
来たのです。60cmだと幅をとらないので、どうしても脇が通路にならざるを
得ない新ダイニングコーナーに置いても手狭にはならないでしょう。そして
長さが2m以上もあれば相当数の人が食卓を囲むことが出来ます。
これで今まで食卓を置いていたキッチン部分には物が少なくなり、LDK
全体が 随分スッキリとした感じになるのではないでしょうか。

このようなテーブルでも何でも、実に簡単に作れるある種の大きな板を
集成材というのですが、 これがまた随分と安くて たったの4000円です。
これと2バイ4材を使えば、どんな形の机だろうが 食卓だろうが
自由自在、実に楽に製作出来るのです。下手なところは綺麗な
テーブルクロスで隠せばいい。食卓一個作るのに 多分一日あれば
十分でしょうね。集成材、これは皆さん確かにお勧めです。

2008年9月23日火曜日

月に寄せて

キリスト者は世の光、しかし
光は 彼らのものではありません。
天の光はただ、
キリストから来るのです。

月の使命は「太陽にまっすぐ向かうこと」。
月が太陽に向かいさえすれば、
暗黒の夜 太陽の光そのものを
地上に届けるのです。

月は働くことなどなく、心配もしない。
その運行の総てを天の力に委ね、
ひたすら太陽の顔を見つめつつ
太陽と共に天に留まるのです。

それはホンのひと夜の時間だけ。
輝く太陽が東から昇り
地上を強く隈なく照らすまで。


明日、山に戻ります。

2008年9月21日日曜日

一幅の巨大な図式

時空とは、ある明確な目的のもとに神によって創造されたところの
時間と空間の一定範囲です。その構成要素は基本的には物質です。
(しかし創世記1の1の簡単な記述及びその他から察するに、
神はそれらの時空の中の万物をすべ治めるべき「物質を超えた霊的で
極めて高度な生物」をも創造されたことでしょう。)
さて、時空の中に創造された万物の目的とは
「永遠である真のリアリティ」を絵として描くことでした。

例えばここに一つのリアリティとして命と言うものを取り出して見ましょう。
先ず真の命、真のリアリティとしての命ですが、これは聖書では「永遠の命」
とも呼ばれております。それは完全な命であり、真の真、真の新、真の美、
真の善を併せ持つものであり、その命には始めも終わりもありません。
命と言うものは元々そうであってこそ命です。完全な命というものがあると
するならば、それは永遠の命でなければならないのであり、
死、衰退、腐敗、汚染、虚偽などとは全く無縁なものに違いありません。
それが「命」と言う素晴らしい名前で呼ばれる以上、
命とは本来そういうものでなければならない筈です。

次に時空の中に存在する命を見てみましょう。その役割はこうです:
即ち時空の中に存在する無数の多種多様な命は総て、
「あの豊かさに満ちた永遠の命」の各面を描き出す為の絵なのです。
換言すれば地上の総ての生物の体系は、完全な命を推奨するべき
ある「一幅の巨大な図式」であるに過ぎません。それは将来ある時、
その完全な命が到来することを暗示し、期待させると言う使命を持つ
「おびただしい数の命の写真からなる一つの体系」なのです。
その意味において、地球全体は真の命を描く為の
「神の一大キャンバス」であったと言えましょう。

さて今、この巨大な図式の中の一隅に描かれている、とても小さな
被造物に注目して見ましょう。例えば山路にひっそりと咲くスミレという
可憐な命 、このはかない命でさえ私達をして その背後に確かに存在する
偉大で完全な、しかし決して「これ見よがし」でない謙虚で純粋な真の命
(即ちあのイエスキリスト)を想起させ、それを慕い求めさせるのです。
このことこそ極めて重要な神の創造における目的の一つです。

山路来て なにやらゆかし すみれ草 
(芭蕉)

2008年9月19日金曜日

敢えてまとめて見ると

危険を冒して敢えてまとめてみます。 
物質である時空とその中の万物はキリストと言う範囲の中で
創造されました。従って 時空の中に入られたキリストとしてのイエスが
神による死刑と言う審判のもとに服された時、何と サタンによる深い
影響下にある時空と万物も、「最後のアダムの肉」において、
即ち物質とさえなられたキリストの中に総て包含され、閉じ込められ、
いやおう無しに神による死刑判決に服したことになります。
キリストの十字架は極めて偉大です。ここに時空内の否定的消極的な
「総ては終わった」のです。 (ヨハネ19の30)

複数形の罪・・もうキリストの御血によって始末されています。
単数形の罪、肉、古き人・・最後のアダムとしてのイエスの死の中に
含まれた「私そのもの」がもう墓の向こうにもたらされたので最早 
それらの要素は 私に影響を及ぼすことは不可能です。
この世・・この世も私も十字架に付けられたので、互いに影響力を及ぼす
ことは出来ません。
サタン・・サタンの働く領域は時空内の地上と人の肉ですが、その
両者とも死の判決のもとにあるので、サタンは今職場を失っております。

ここで重要なこと:
①以上は総てキリストの死を根拠とした、神の大審判
に基づく結果 である ということです。
ここで注目するべきはサタンそのものです。サタンに対する審判は
確かに終わりました。しかしその判決による サタンそのものに対する
死刑の執行は これから順次行われて行くのです。今後、様々な形の
死刑の執行が行われた後の究極的な執行があの火の池です。

②ところが、執行はまだであるとは言え、私達は神の偉大な審判そのもの
でさえ神の敵に対しては極めて大きな(執行とほぼ同じ)影響力を
及ぼすことを知るべきです。(この世の法治国家における死刑の最終判決
にさえそれは暗示されます。死刑囚に残されたゼロにも等しいチャンスが
あるとするならば、それは改法か脱獄くらいでしょう。しかし
神に失敗などあり得ません。イエス御自身は神による「死の宣告を
受けた」に留まらず、事実として「死刑の執行」をさえ受けられたのです。
敵がその運命から逃れ得るチャンスは絶対にありません。)

③さらに知るべきは、時空内においては執行はまだなのですが、
神の真理は永遠なので、この審判に基づく執行にも永遠性がある
ということです。これは敵を震え上がらせるに十分です。私たちはこの事実
を常に記憶するべきですし、これを敵に対して頻繁に使用するべきです。
黙示録20の10において神の言葉は「悪魔は火と硫黄との池に投げ
込まれた」と過去形で記しております。ここにもこの事実の永遠性を
読み取ることが出来ます。従ってあなたがキリストの復活と言う
永遠の中にいさえすれば、敵は既に火の池に「投げ込まれた」のです。 

④しかしここにもう一点大切なことがあります。それは以上のキリストの
十字架に含まれる諸事実は唯神の永遠の領域、キリストの復活の領域
内における真理であるということです。その有効範囲はただ「キリストの復活
と言う永遠」内に「限定」されます。なぜなら神は総てのことをキリストと言う
範囲の中において成就されたからです。それがパウロの書簡に頻繁に
出てくる IN CHRIST(キリストにあって、キリストの中で)と言う意味に
他なりません。「今日の天地のキリスト」そのものこそ 新しい神の創造
です。良きものは「キリストの中」以外には存在しないのです。
復活できないものはどんなものであろうと
神の合格ラインに達することはないからです。

それ故に永遠と時空の間には何者も渡りえない大きな淵が横たわって
います。従ってあなたがもし「今日のキリストと言う範囲」に留まらず、
キリストとの一つの中にいないのであれば、即ちあなたが真に永遠を
所有せず、永遠の領域(即ち今日のキリスト)内にいないのであれば、
「今まだ時空の中に存在するあなた」の身の上にそれらの効力が
出現することはあり得ません。

(今日多くの人々がキリストを知らず、それらの真理と全く無関係な
別の領域で平気で生きている状況、否その中で日々死につつある
状況は、今日 私たちが目にするありふれた、そして実に悲しむべき
光景である と言わなければなりません。)

⑤ここで私達は「神は既にあなたを復活のキリストの中へと置いて下さった、
即ちキリストと一つとして下さったという事実」の尊さと、そして
「あなたの時空の中へ永遠のリアリティを引き降ろす」ことさえ可能な
天よりの驚くべき霊的な力、「信じること」の偉大な機能に
ただ目を見張るのです。

「私(キリスト)に留まりなさい。・・多くの実を結びます。・・私の内に
留まっていなければ、枝のように投げ捨てられて枯れます。」
(ヨハネ15の4、5、6)

2008年9月13日土曜日

レポート:一寸意外な展開でしたよ

いよいよ見知らぬ青年を迎えるきのうの朝、
曇りどころかどうにもならないザーザー降りのひどい雨、
と嘆いていたら、みるみる天気は実に爽やかな青空へ。

ところが船引駅からの車の中で彼(以下ウッズさんと呼ぶ)が
言うことには、「実は夕日の撮影等はどうでもよいこと、
山小屋での交流の為にはるばる来たのです」と。

こういう「おもてなし」、私にとって一番やっかいなのは
どんな食事を提供すればよいのか、と言うこと、と言うか、要するに
私は何も作れないのです。所がウッズさん、ご飯と、納豆と 簡単な
味噌汁があれば何もいらない、グルメなど全く関心がない、
と言ってくれたのです、これはラッキー。

結局彼が喜んで食べてくれたのは:
昼作った、残り物の豚肉とキャベツの煮物、納豆、山椒の葉っぱを
添えただけの冷たい都路豆腐、焼いたシャケの切り身、
後はデザートの新鮮なキョホウ。

彼の5年以上にわたるカナダ、アメリカでの暮らしのこと、
出来ればアメリカ人になりたかった、でも「ああヤッパリ私は
日本人」と分かって帰国。
アメリカ人は「俺達こそはUSAだー」 と思っているが 
カナダ人は、自分達はカナダ人とは思っていないそう。
蛍光灯の光はヤボ、白熱灯は美しい・・

などと言う話で明日まで終始するのかな、
と思っていたら、意外、彼の口からある真面目なテーマが飛び出し、
ひたすらあとはズウーッと キリストと神の愛の話。

白熱灯の温かい光の中 不思議な盛り上がりが
急ごしらえの「ダイニングコーナー」を満たしたのでした。

今朝も予報に反し、外は美しい初秋の青空です。

2008年9月11日木曜日

こんな出会いも・・

こんな出会いもあるのでしょうか。
ブログでささやかな会話を交わしただけなのに、
「昼寝の礼拝?いいですね、じゃ行きます」と、
全く見ず知らずの青年が
ホンとにあした、多分東京から はるばる阿武隈の
この山小屋まで来てくれるのです。

彼の願いはきれいな夕日を撮ること。
でも 天気がよいのは本日限り、
あした夕方 曇天の空に、一寸だけでも 
夕焼の空が顔をのぞかせてくれないだろうか。

青年:
13:44 船引到着予定で出発します。
途中遅れたなどの理由で何か
sugar さんと連絡をとる方法はありますか?
いちおう私だとわかるように写真を貼付しておきます。

中学高校時代、
山岳部に所属していましたので、関東地方の山には
ずいぶん足を運びました。
東北は飯豊を縦走したことがあります。
山はどんな天候でもまたそれぞれに
いろいろな表情を見せてくれますよね。

私:
はい分かりました。
小屋の電話は 0247 75・・です。
山岳部とはスゴイですね。
12日、金曜日13:44、船引駅でお会いします。
(ピアノの前に座った爽やかな写真、
この人、まぎれも無く青年ですよ。)

2008年9月8日月曜日

時空も神の創造物です


キリスト者はよく「御在天の父なる神様」と祈りを始めますが、
実のところ この意味は相当深いようです。まず、それは私たちの
お父さん としての父なる神と言う意味です。私たちが神を「お父さん」と
呼べるとは何たる幸いでしょう。これは父親と言う意味での父です。
しかしそれにはもう一つ、
「総てのものの源なるお方」と言う意味があります。

さて聖書に「万物」或いは「あらゆるもの」と言う表現は数多く出て来ますが
私たちはこの言葉を神の言葉としてそのまま受け入れるべきです。
即ち、当然のことながら神が万物と言うからには、それは文字通り
万物であって「総てのもの」を意味するのです。


ところが何故か多くの人は、万物を「この時間と空間の中に存在する
総てのもの」と捉え、時間と空間そのものは、「総てのもの」から
除外しているように思われます。時空だけは「もの」としてカウントしない
のです。宇宙だけは完全別格あつかいです。なぜでしょう、
これは実に不思議なことです。

しかしながら、時間と空間も、物理学で取り扱うことの出来る
「もの」であることは明らかです。「総てのもの」から、例外として
時空だけを除外することは理屈に合いません。時空 即ち宇宙でさえ、
それは「もの」なのであり「万物」に含まれなければならない筈です。
宇宙は決して別格ではありません。宇宙・時空も物質であり、明らかに
神の創造物です。このことは、後述することもあるかも知れませんが、
極めて大きな意味を持つことになるのです。

当然 時空は相当大きいものです。(「物理的には」それらは
永遠であり無限にさえ見えます。しかし最近の科学者は別のことを
言っているようですね。)だから時空はあらゆる他の物質の
「入れ物」であると言えるでしょう。即ち私達は、時空と言う「もの」の中に
他の総てのものが存在している、と考えるべきではないでしょうか。

キリスト者でさえ時に、「この無限永遠の宇宙の中に、神は存在して
おられま」す、と言うような言い方をします。しかし、仮にもしもそうで
あるならば 少なく見ても宇宙は神と同等か 時間的 或いは空間的には、
宇宙が神よりもより偉大であることになってしまいます。 もしも仮に
そうであるならば、「総てのものの根源である父なる神」は成り立たなく
なってしまうのです。

この考え方の中から、一つの思想、「宇宙・物質は時空的永遠の昔
から存在し、そしてその中心は地球であり、そのまた中心は人である
から、この物質宇宙を認知できる人類が万物の霊長であり、神でさえ
あるのだろう」が生まれて来たのかも知れません。そこには宇宙と人間を
何か特別なものとする思想があるように思われます。そして
その背後には、出来るならば 「真の永遠」である神(或いは、
「彼らの宇宙」の中に存在する神)を退け、人と物質を神としたいものだ、
と言う強い願望が横たわっているように私には思われるのです。かように
「宇宙は無限であり、永遠である」の根は相当に深いのです。


しかし当然これは間違っています。 人は人、物は物、宇宙は宇宙に
過ぎないのです。私たちは単純に「神は神です、私は神のみを神とします、
神は総てのものの父であり、根源です。」 と 言わなければなりません。

神のみが唯一全能であり無限、そして永遠なるお方であり、彼こそが
「総てのもの」の源です。私たちはそもそも、そう言う存在に対してのみ
神と言う名前を与えたのではなかったのでしょうか。だとすれば単なる
被造物である時空は 無限でも永遠でもないことになります。その意味に
おいては この物質の宇宙・時間と空間にさえ、定められた限界、
そして その始まりと終りが確実に存在するに違いありません。

この事実を 神の言葉は実に簡明に記しております、「万物は御子の
中において創られた」(コロサイ1の16)と。 「宇宙の中に御子がいる」
のではありません。万物は「御子の中で」創られたのであり、
神の子・御子(「人の子」でなく)は万物・宇宙を超越しているのです。
神と御子だけが永遠であり、無限なのです。
「初め(永遠の過去)にことば(御子)が在った。・・ことばは神であった。
・・総てのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方に
よらずに出来たものは一つもなかった。」(ヨハネ1の1、3)


多くの人は当然の如く この時空・宇宙こそが 総ての総てである
と「信じて」います。何故でしょう、何故なら その考え方には初めから
「真のリアリティである永遠」が除外されているからです。しかし実の所
それは、もし出来得るならば 自分の頭から「宇宙・時空をさえ
創造された存在、絶対的に義しいお方なる者」を除外したい、と言う
願望に過ぎないのです。その願望の理由は簡単です。もしも
そういう存在が本当にあるとするならば それは 自分の
「自由な」生き方にとって どうにもこうにも都合が悪いからです。
人にとって神は大いにケムタイのです。

不思議なことなのですが あのゴルゴタの十字架の周りにいた人々も
「除け、除け!」と絶叫しました。彼らも何とか、あの「私は在る」であられる
お方を彼らの目から、彼らの思いから そして出来ることなら、この時空
からさえ除き去りたかったのです。「人類の究極的な願望」が あの一つの
叫びの中に凝縮されていた とさえ言えるでしょう。そして
ある意味において、彼らの企ては 完全に成功したのです。即ち 人類は
その願いの通りに彼を 「時空から追い出してしまった」のです。


しかしながら当然、被造物に過ぎない人間が単にその頭脳と目から、
そして この時空から彼を除外することに成功したとしても、「正に存在
そのもの」であられるお方を真の意味で除外し消し去ることなど
出来る筈がなかったのです。何故でしょう、人の子イエスは
「更に大いなる真の存在・ キリストの復活」の中へと入られたからです。

私たちはあの十字架の場面において、計り知れない
神の偉大な知恵を見ることになります。
即ちあの時、I AM (私こそ真の存在)であられ、また全き「人」
であられたイエスは その「除け、除け」の怒号を巧みに捕らえられ、
それを「人の子としての御自身」をして、時空から永遠へと飛翔させる
機会とされたからです。人類はあたかも人の子を時空から
取り除くことに成功したかに見えたのですが、彼はそれを 人の子が
時空を遥かに凌駕するチャンスとされたのです。

更に彼は その「除け、除け」を、私達彼を信じ「彼と一つとされた
人の子達」 さえをも、この時空世界から「彼の永遠」(復活:不死、
無制限時空への超越、更に彼御自身)の中へと
もたらす千載一遇の機会とされたのです。


・「私が(十字架に付いて)地上から上げられるなら、私は総ての人を
私自身に(原文)引き寄せます。」(ヨハネ12の32)
・「私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを
私自身へと迎えます。」(ヨハネ14の3)
・「ああ、神の知恵と知識との富は何と底知れず深いことでしょう。」
(ローマ11の33)


昨日書いたものと比べ、言いたいことは全く変わっていない
のですが、表現の上で相当変えたところがあります。
再読してくださったらとても嬉しいです。 

2008年9月7日日曜日

張り切り過ぎには要注意

納戸、きのうで大きな工事は結構進みましたよ。
でもカイコだな、もう3段は要りますね。

それ以外、あと五日でやることは・・・
・ダイニングコーナーの壁の一面に石膏ボードを張ること、
この壁 あまりにみっともないからです。
・不要になってしまった大きなガラス戸2セットを南デッキ
(下の写真が南デッキ)の上部に格納すること。
・大きな本棚を地下に移動する(これはお客さんに手伝ってもらうつもり)
為の準備をしておくこと、ですね。
納戸の踏み台まではまだまだです。

それにしても67歳、
張り切り過ぎには要注意。

あるメールから(3)

『自分の十字架を負う』『自分を否む』『十字架の閉じ込め』
『私ではなくキリスト』というテーマをつらつらと思い巡らしておりました。
このテーマは今ままでも何度も思い巡らしたテーマです。

今までの私の感覚は、キリストに頼って生きる、しかも100%頼ること、
というものでした。しかしこれではどうもしっくり来ない、という思いが
どこかにあったのです。そして今日気付いたのです。

それは、私にとっては100%キリストに頼って生きるということも、
実は間違っていたということです。100%キリストに頼って生きるという
言葉はきれいで響きがよく、多くの人がうなずくとは思うのですが、
頼るという感覚がどこかに少しでもあるのなら、それは自分がゼロに
なっていない、つまり100%頼る生き方は実際的には(原理的には)
あり得ないと思ったのです。どうしても1%、0.1%は古い自分が
生きているはずです。

「私ではなくキリスト」というのは、「自分はもう死んだ、だからキリストしか
生きようがない」という理解の方が、ピンと来るようになったのです。
だから古い私が死ぬ、というのはとても重要だということになります。

しかしこのような状態が一日の中でどれくらいあるだろうか、と思うのです。
自分の前に何か大きな問題が立ちふさがり、にっちもさっちも行かない
時や聖書の言葉や霊的な人達の言葉に触れた時などであれば、
この状態に戻ろうという思いが湧いてくるのですが、何も問題もなく、
あるいは肉的状態に熱中している時は、
こんなことを思うことはないと思います。

しかし最近、日常生活の中でも、キリストでなく「自分が生きている」ことに
ふと気付くようになったのです。このようなときは、『古い私はもう死んだ、
私は今、キリストと一つになった存在として生きている』という真理を
思い出すようになり始めました。

とは言っても、古い自分で生きている感覚と古い自分は死んで、
キリストだけで生きている感覚の違いが自覚できるわけではありません。
いずれにせよ、一日の終わりに、今日は古い私が死んでキリストに生きて
もらった時間は どのくらいあったのだろうかと思い巡らすことはいいことだ
と思うようになりました。

私ではなくキリストとは、キリストに頼って生きることではありませんね。
ちょっと秘訣が分かったようで嬉しいです。 それではまた。


「私はキリストに頼って生きるぞ!」と言う幾多の試みの果てに
「キリストが私の内に生きておられる」(ガラテヤ2の20)、即ち
「キリストが私において、キリストが私との一つにおいて生きておられる」
が来なければならないのでしょう。主語はキリストです。確かにパウロの
意味は「私が(キリストに頼って)生きる」と言うのではない筈です。
それではやはり 疲れが残ります。

2008年9月6日土曜日

良い納戸、踏み台の作り方

来週末、お客が来られます、
となって初めて私は工事をする気になるのです。そういうことでもないと、
工事なんかする気になりますかね。小屋は汚いけれど、一応自分一人の
生活は出来るのですから。

で、それまでの6日間、何をするかです。
先ずはよい納戸(カッコよく言えばウオークインクローゼット)を
作ることです。その必要はとても大きい。

何故なら、本来であれば人間様がノビノビ楽しむべき相当多くの貴重な
スペースを、何と言うことだ、 たくさんの「物ドモ」が、
中には全くお呼びでない無用のイソウロウ達までもが正に我がもの顔で
雑然と汚らしくそこらに鎮座しているからです。「これはけしからん、
許すわけには行かない、家と言うものは人には人の、物には物の
おるべき場所があるのだ、そこに控えおれ!」

と言うわけで今度は冷静になり、よいクローゼットの条件とは
と考えて見ると、それは:
①ある一点に立てば、収納された物が総て見えることです。物の陰
(つまり物の奥と物の下)に物が隠れてしまう状態はよい収納
とは言えないのです。それから
②出来るだけワンモーションで総ての物が取り出せること、
だと思います。

問題はスペースですね。
狭いスペースで①②の条件を満たすとなれば、物を種類ごとに透明な
ケースに入れ、ケースにその物の種類を明示し それを何段もの
「カイコだな」(分かりますか?)を作って、それらのケースを横に一列に
並べる しかないと私は思います。

一段のカイコだなに物を二重に置くことは②の条件を満たしませんから
カイコだなはどうしても高さの寸法が違う数種類を作る必要があります。
結局 「良いクローゼットとは良いカイコだなのあるクローゼット」
と言うことになりそうですね。

問題はもう一つあります。
狭いクローゼットのことですから どうしてもカイコ棚は4、5段にもなって
背が随分高くなります。ですから一個だけ、とてもよい踏み台が必要となる
のです。その条件はこうです、

人が納戸に入り、その踏み台を目にした時、「面倒そう」とか
「危なっかしい」と思わせないで、納戸内のどこにある物でも
簡単に取り出す意欲を感じさせるようなものでなければなりません。
こう考えると、たかが踏み台でも結構 難しいものですね。
さあ、うまく行くでしょうか。それではいよいよ作業に入ります。

2008年9月5日金曜日

十和田湖の風

今ある方からメールが入りました。
あの なつかしいふるさとの
初秋の風を感じさせられます。


一人、

湖畔でキャンプをしています。

今自分の十字架で最も大切なのは、

人を赦すこと。

「自分も主に赦され、解放されているよ、

とにかく、平安の主の命に与かることだなぁ~」と思って。

今朝、

それが出来たのです、主にすがって。

北国の湖と このブナの木の下、

ただ深い水の広がりと、緑を楽しんでいます。

命の話は簡単には行きません

前回見たごく基礎的な命に関する知識から発展して、今回は
「この命に関する話は遂には相当 壮大かつ複雑な風景を眺める
ことになる」と言いたいと思います。

なぜ命を描く絵は複雑なのか、それは
①神の敵がこの命の問題全般に関わっており 問題を極めて
ややこしく複雑にしてしまったからです。 更に
②通常私たちが取り扱い関係している「時空内生命」のほかに
「時空を超えた命」と言うものが存在することを聖書は当たり前のように
示しているからです。この「時空を超えた」というテーマ自体既に
「途方も無い」話となってしまいます。

しかしそれは 聖書を総ての拠り所とする私達にとっては避けて通れない
テーマです。何故なら聖書から永遠を差し引いたら 間違いなく聖書は
聖書でなくなってしまうからです。既に「神自体」が時空を超え、
永遠のものではありませんか。

従って私達はこの「時空を超えた」と言う話を「わかる筈がないでは
ないか」等とバカにしたり敬遠したりせず真面目に正面から取り扱う
必要があります。私たちが真剣に求めさえしたら 神は確かに永遠を
真に知る「知恵と啓示の霊」を送って下さるでしょう。

(元来人には既に永遠を知る能力が与えられているのです。人は元々
神によって永遠性の存在として創造されているからです。私たちは単に
「永遠を思う」に留まらず「永遠を獲得する、永遠と一つになる」
ところにさえ進み行く必要があるのです。)

聖書は明確に「時空を超えた世界がある」ことを告げます。と言うよりも
聖書はこの永遠の世界こそ、リアリティ(実際)であると断言するのです。
即ち聖書は「時空を超えた世界こそが真の世界」であり、方や
「時空の中の世界」は単に「永遠の世界」を描く絵に過ぎない、と
当然の如くに主張するのです。

もしもそれが本当なら 私たちが日々接しているこの世界は総て 
絵、或いは影、模型に過ぎないことになります。言わば現実であると
私たちが信じて疑わないこのリアル感溢れる世界は実は「真の現実」
ではなく、「真の現実」を映している単なるスクリーンに過ぎない、
と言うのです。これは確かに途方も無い聖書の主張です。

この時空内世界、物質世界には多種多様な無数の命があり、その
最高峰に人の命があります。しかしこれら総てに敵の
ウソと死と汚染が深く浸透しているのです。
方や、永遠の世界にも多種類、無数の命があり、その最高峰に
神の命があります。

この二つの領域内の総ての命が①自己保存の欲求②結合・一つに
なることへの欲求③増殖、豊かさ、繁栄への欲求に深く関わって
いるのです。その関わりの中で決定的で最重要のものが間違いなく
キリストの受肉、十字架と復活、昇天です。 かように、
命の話がどうしても極めて深く広大、複雑な様相を呈するのは
どうしても避けられないようです。



私はこの「絵の世界」が価値のない世界であると言いたいのでは
ありません。そこにも極めて明確かつ重要な意味と使命があります。従って
私たちは「時空世界の位置するべき場所」を知る必要があるのです。

聖書は この時空を超えた世界を「永遠の」「神の」「天的」「見えない」
「実際の」「真理の」などと言う言葉で記述しております。

多分後述するでしょうが「永遠の」はエバーラースティングでなく、
エターナルです。即ち永遠は このエンドレスな「時空内時間」ではなく、
全く異質、極めて高度な「実体」です。そして更に時間的要素は
永遠の中のホンの一部に過ぎないことを知らなければなりません。

2008年9月4日木曜日

新・礼拝は24時間(4)

*命について*
命とは何でしょうか。最も簡単に言えばそれは「生きる力」です。
さて 「この時空の中に存在する生き物」には基本的に
3つの欲求があると言えます。それは
①自己保存の欲求、
②結合・一つへの欲求、そして
③自己複製への欲求です。

自己保存は
結合の為、結合は複製(増殖)の為です。即ち自己保存が満たされると、
結合の欲求が生まれ、それが満たされるとその結果 その命の
自己複製 ・増殖への欲求が現れるのです。(子育て等)
簡単に言うと総て命と言うものは「一つ」を欲求し、その一つとされた命は
更にその豊かさを増し加えることを望むのです。

ある程度命が高度になると、
命には「欲求」に加え「愛」が現れます。その事を「命の欲求は 愛と言う
形に昇華される」と言ってもいいかも知れません。従って 命の中に
存在する愛は他の同種の命と一つになることを願います。そして
そこに実現された一つは命を流し出し、更なる豊かさへと向かうのです。

これら総ての中に働くエネルギーは
「欲求」或いは「愛」の中にあります。故に 愛は命の中にあり 命は
その存在そのものである、とも言えるでしょう。従ってやはり
「命と愛は確かに24時間である」のです 。

☆別件ですが、
台湾の姉妹、9月29日以降になりました。

2008年9月3日水曜日

青年が来る

ある青年(私から見れば)が近日中 
小屋に一泊することになりました。

その青年からのメールです:
Sugarさんこんにちは、今私は写真の学校に通っているのですが、
このたび学校が写真の教科書を作るということで、その教科書に載せる
写真を募集しております。風景写真です。Sugarさんの小屋も含めて撮影、
掲載させていただいていいでしょうか。もちろん多数の応募が予想される
ので確実に応募すれば載るというわけではないのですが。
小屋の周りはどんな様子ですか?夕日や朝日、ほかの山々が見える
ようなスポットはありますか。

私:
メール嬉しく拝見。言われることすべてその通りで結構ですよ。
小屋に来られたらお気持ちのまま、あなたの自由に過ごして下さい。
この土地はあなたの「領土」、これはあなたの小屋だとでも思って下さって
いいと思いますよ、何しろあたりに人間はあまりいないのですから。

見ればここは全く山また山、小屋は緑の海の中です。太陽さえ出て
くれれば 朝と夕方は正に森を写す光の時間です。夕日はロフトの
デッキからもよく見えますよ。撮影にはここが一番いいポイントかな。
もしもこの小屋やあたりの景色が教科書に載るんだったら
それは嬉しいですよ。期待しております。
で あなたのメール、私のブログに載せてもいいですか、
ある青年から と言うことで。

青年:
どうぞ。まあ38ですから青年とまではいかないでしょうが・・
これから電車の時間など調べてまたメールします。
「山暮らしのキリスト」 いつも励まされております。
私自身このブログに主の導きを感じているので毎日見ているのです。
また私の周りにいる人たちにも紹介して見ると みんな喜んでいます。
「教会とは何だろう」と長い間模索してきた結果「ああやっぱり
そうだったのか」というのが彼らの印象のようです。

☆ニュースです
何度もこのブログに書いた例の88歳の台湾の姉妹ですが、
つい先ほど元気な声で電話があり「この2、3日中に、いつ小屋を
訪問するかを決めます」とのことでした。後で私の方から、
9月中旬以降にして下さい、とお願いするつもりです。
本当に主のなさることは不思議です。

2008年9月2日火曜日

今日の山暮らしから

今日は結構よく働きましたよ。
前回入り口ドアの横に飾りだなをつけたら、何と今回ドアの閉まりが悪く
なっていたのです。ヤレヤレと今日飾りだなの全部を取り外して一から
やり直しです。これが昼過ぎまで。

午後は今度クローゼットを移動する和室奥のスペースに石膏ボードを
張り付ける作業でした。私は石膏ボード工事は初めてなのです、
何故なら これまで壁は全部合板を使用していましたので。
石膏ボード意外と楽でしたね。これが4時頃まで。
それで今日の大工は終わり。

先回、薪割りなど少し無理したせいか、或いは左肩のダンベル運動の
重量が重すぎたのか、左腕が時々ピリピリとしびれるのです。この間 
実家で近所の整形外科に見せたら、医師が「一ヶ月位様子を見て
それでも改善しないようなら、また考えましょう」というのん気な見立て。
ま、大丈夫のようですよ。少しずつですがしびれの度合いが
薄れて来ていますので。


以下は 礼拝についての余談です。
本日大工をしながら考えて見たのです・・。

もしも仮に 本当に「礼拝がセレモニーである」とするならば 週一それを
忠実に守ることによって間違いなく及第点がもらえるでしょう。
それで済むなら 事は簡単で楽です。

ところが、真に神を求めるキリスト者であるならば そのような
及第点に 心から満足し安心出来る筈はありません。

さて、しかしながらかような「更に前進したキリスト者達」もよく
礼拝と言う言葉を用いるのです。そこでそれはどんな意味なのだろう、
と 少し考えて見たのです。どうも彼らの用いる「礼拝」の意味は
次のようなもののようです。それは・・
「キリスト者が持つべき神に対する最も重要かつ基本的なありかた、
或いはその実行」と言ったようなものです。

しかし「キリスト者が持つべき神に対する最も重要かつ基本的な
ありかた、 或いはその実行」などと一々言うのは長ったらしくて面倒です。
そこで彼らは それを「礼拝」或いは「礼拝する」と言う簡単で便利かつ
つかみ所のない表現で済ませている のではないでしょうか。

それは
「真の礼拝は一体どこにあるのであろうか。」
「彼は早朝起床し、真剣に聖書を読み祈るのであった。それは彼に
とって 正に礼拝であったのです。」
「・・これこそ、真の礼拝であり奉仕です。」(これ私でした!8/17)
と言うようなときの 礼拝と言う言葉の用い方です。
皆さんはどうお思いですか。
(確かに、そこに「神を愛する」を入れても大差はないようですね。)

八時です、もう眠くなりました。

2008年9月1日月曜日

新・礼拝は24時間(3)

ここまで見てくると 
礼拝は「時間と場所を限定した所で行われるセレモニー」
などではないことはあまりにも明らかであり、それを最早
ことさら強調するまでもないように思われます。
礼拝は愛がその源であり、愛は24時間であるからです。

例えば、子供は
お母さんを愛しています。その愛は24時間ではないでしょうか。とは言え
幼稚園に行っている間、子供はずうっとお母さんを意識し、常にお母さん
への愛を実感し続けることは出来ません。それは不可能です。
だとすればそんな時には子供はお母さんを愛していないことになる
のでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

子供のお母さんへの愛は 
お母さんを愛するという意識と感覚よりも更に深い所にあるからです。
その愛は子供の存在とお母さんの存在の深い結びつきそのもの
の中にあるのです、愛はこの両者の「一つ」の中にあるからです。
ですからその意味で本来、子供のお母さんへの愛は
不動であり24時間です。

お父さんの子供への愛も
同様です。子供を意識することがない彼の会社勤務の間でさえ、
彼は子供を愛しています。やはりその愛は彼の、子供との結びつきの中に、
父と子の深い命の結合の中にあるのです。愛は命の中にあるからです。

会社における彼の辛い勤務、それは
彼の子供への愛の表れです。その勤務は彼の子供に対する愛の結果
生まれてきた所の子供の為の言わば 陰の「奉仕」であるとも言えましょう。
お父さんの生活における総ての行動、姿、在り方でさえ、お父さんが
眠っている時間も含め、総て子供への愛の表現です。

人間の家族間に存在する本来の愛、
それは 言わば「24時間性」のものです。なぜなら愛は命の中にある
からであり、命ある限り 愛はそこに自ずと存在するからです。
何と命は時間や場所の拘束を受けることがないのです。

罪に落ち込んでしまった私達人間の
親子の愛にさえ 以上の様なことを言うことが出来るとするならば、
ましてや、神の人に対する深い永遠の命を源とする私たちの神への愛が
時間の制限を受けず24時間であることは
当然過ぎるほど当然のことである、と言わなければなりません。
確かに私たちの神への礼拝は24時間なのです。