・・・言われる通りです。
神は最後のアダムの肉において、旧創造の総てに
死刑を執行されただけでなく、それを呪われました。
だからイエスは
「ユダヤ人の石打ち刑」で死ぬことは出来ませんでした。
なぜなら、神の心は旧創造を、死刑に処すだけでは満足される
ことはなく、その上旧創造をとことん呪う必要があったからです。
だから旧創造の一切は神から見て、単に終わらされただけでなく
死んだ忌まわしいヘビのように更に呪われ、汚れたものとして
捨て去られねばならなかったのです。イエスにおける十字架とは
何たる死刑であったことでしょう。
(この事実を私達は、
自分自身と、自分そのものと、自分に
属する一切の旧創造に一つ一つ適用するべきです。)
当然のことながら、イエスは神によって呪われたくはありません
でした。にもかかわらず「ただみこころであるが故に」十字架に
向かわれたイエスの苦悩は、実にその点にあった筈です。
しかし彼は自分を否み、十字架に向かわれました。
それはひとえに父へ従順と私たちへの愛の故でした。
「彼は・・死にまで従い、実に十字架の死にまでも
従順になられた。」(ピリピ2の8)
以上のことは神の側では、
永遠において、キリストの中で、また法的に
完成しております。
今、時空の中にいる私達がするべきことは
苦悩するイエスとは異なり、ただ、
上の事実を信じ「安息する」ことです。
何と幸いなことでしょう。
これは日に何回でもするべきです。
*
もう一つの真理があります。それは
信仰・「信じること」とは、知的操作などではなく、
本質上それは霊的なものであり、その中には
永遠の性質がある、と言うことです。
だから、2千年前の
「永遠の性質を持つ十字架の事実」は
それと同質の
「信仰という霊的、永遠的なもの」と結合し
(或はそれに乗って)2千年後の私達の現実の中に
まるで宅急便のように届けられ得る、という驚くべき事実です。
何故ならそれはキリストイエス「の」信仰であるからです。
(ガラテヤ2の16その他、原文)
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