メール感謝です。皆さんがそんなに長い間(何年間も)
「御国」を学ばれているとは凄いですね。
御国と聞くと、私はある種の「興奮」を覚えるのを
禁じられません。だから御存知のことでしょうが
次のことを書かせて下さい。
聖書で言う国とは民主国家でなく王国です。
その王とは神、主キリストです。だから御国とは
具体的には「キリストの支配」ということになるでしょう。
そこでとても大切なことは、
その「主の支配」は私の生活において
今もう始まっていなければならない、ということです。
だから今日、王の支配の下に生きていない人が
ある日突然「気づいたら何と私は天国にいた」ということは
あり得ないことです。それはムリであり不自然です。
それは人の血肉を源とする宗教から発した希望的憶測に
過ぎません。原則的に神は「取ってつけたような不自然な
こと」はされません。だから「次の時代」においても、
その人が天国の支配を享受することはあり得ないことです。
逆に言うと、ある人が今現在、王国(神の支配)の中で
生きているのであれば、その人は次の時代(「御国が誰の
目にも明らかに出現し、神が義によって統治される時代)★
においても、無理なく自然に、自らも「御国の統治」に
あずかることでしょう。
★
「次の時代」に対応して「今の時代」があります。
今の時代において「御国の実際」は、この地上の
「ある部分には」確かに存在しているのですが、それは
キリスト者をも含め、殆どの人の目には隠されています。
福音書が言うように、今の時代における天国は、極めて
奥義的です。
だからこの時代において(いわゆるキリスト教の「天国に行く」
とは相当違うのですが)「天国は奪わなければならない」と
イエスはあえて言われたのです。その意味は、まず真剣に天国を
捜し求め、門を叩いて見出し「自分にとって殆ど耐え難いほどの
貴重な代価」※を払ってまで、自分の手で勝ち取らねばならない、
ということです。これがいわゆるイエスの「山上の教え」でも
あります。「先ず神の国と義とを求めなさい」(マタイ6の33)
※「自分にとって殆ど耐え難いほどの貴重な代価」とは
「自分の魂の命」を十字架の死に渡すことです。もしも私達が
そうするならば、「内なる人」の中の聖なる「霊の命」が腐敗した
魂の命にとって代わるいう「命の奇跡」を体験することでしょう。
(命とは当然、生きる為の力・エネルギーのことです。)
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