今朝の聖書:
黙示録8の9「魂を持つ被造物」(原語)※1
聖書は「生き物」を「魂を持つもの」としている。
これは創世記1の24の「地はその種類にしたがって
魂を生ぜよ」(原文) ※2も同様である。
何故か聖書はここで他の生物に対しても
人の魂と同じ語・魂を使用している。
ここで暗示されていることはまず
人の魂も被造物、旧創造のものに過ぎない
ということである。人の魂は素晴らしいものには違いない。
しかし最も大切なことは
神は人に対して(他の多くの生き物のように)
魂の力※3によって生きるのではなく、ただ新創造のもの、
即ち死を経過したキリストの命、復活の命、霊の命によってのみ
生きて欲しいということである。
※1新改訳では「命のあるもの」と訳している。
※2新改訳では魂を「生き物」と意訳している。
※3
「神の命の力」は
人の魂の機能を支配下に置き、それを用いるのです。
私達が十字架に向かわせなければならないのは
魂の命(力、エネルギー)であり「魂の機能」ではありません。
もしも魂の機能さえも死んでしまったら
人は人でなくなってしまうから大変です。
神はそのようなことはされません。私は
とこしえに至るまで人であり また私らしいでしょう。
私の魂の機能と個性は永遠に不滅です。
私達がもしも
自分の魂の命(力)を十字架に「連行する」ならば
キリストの命が直ちに「人の生来の命の力」に
取って変わり
神の力が私達の魂の「思い、意志、感情」(魂の機能)を
用いられるでしょう。
即ちあなたを動かす力の源がその瞬間 神の力に変わるのです。
これこそ最も素晴らしいことです。
またキリスト者が良く用いる命という言葉は
分かっているようで分からない言葉です。
それを上記のように「生きる力、エネルギー」と
変えて見ると分かりやすいのではないでしょうか。
2 件のコメント:
>魂の命(力、エネルギー)であり「魂の機能」ではありません。
もしも魂の機能さえも死んでしまったら
人は人でなくなってしまうから大変です。
これはわかりやすいですね!
その点を誤解したら大変ですね。
しかし
それに類する大きな誤解は数多くあります。
コメントを投稿