この世界では
「スピーディであればあるほどよい」のです。
しかし 主にあっては本当に
「主と共に遅ければ遅いほどよい」のかも知れません。
その結果「天から与えれれるスピード」
によってなされたものだけが
初めて真の存在価値を持つのでしょう。
*
アーメンです!
「主と共に遅ければ遅いほどよい」、そうですよね、
焦る必要はないのですよね。
当たり前の生活を送っていく過程で、神に照らされ、
「天から与えられるスピード」で成長していければいいのですね。
*
そうだと思います。
「天から与えられるスピード」によって
成長することこそ 重要なのでしょう。
「主と共にスロー」は本当の「スローライフ」です。
そのスローライフを本当に実践する人は
いずれ 自分の生活(or人生)が不思議な方法で
実に能率的であったことを知るでしょう。
何故なら彼にとっては
「イエスそのもの」が「能率」であり
神ご自身がその人を運んでおられたからです
5 件のコメント:
主にあって
遅いなら遅いほど良い
「天から与えられるスピード」で成長
アーメンです。
命のあるものの成長は目で見て取れるほど早くもありませんが、約束の時が来れば見上げるほどになります。
自分の都合に合わせようとするから遅く感じるだけで主は約束を遅らせているわけではない。
サウルやカラシダネの様でなく
時がくれば実がなるその時を待ちたいと思います。
彼は「すぐ来る」のだからその時を。
アーメン、命のものはみなそうですね。
なのに 人々が行ういわゆる「神の働き」は
殆ど「この世の物理法則」に従っている
ように見えます。それは「急げ!」です。
なるほど、
「自分の都合に合わせようとするから
遅く感じるだけ」!
さて現実問題、
物事をユックリと行うのは
結構難しいです。大工をやっていると
特にそう感じます。
何故人は急ぐのだろう?
これは意外に深いテーマです。
[物事をユックリと行うのは結構難しいです。大工をやっていると特にそう感じます。]
そうなんですよ。
どうしてなんでしょうね。
そのうちブログにでも書いてみますが、
結論は難しそうですね。
アーメンです。
「野の百合を見なさい。」という、イエス様の教えに、私達はもっと実行していく必要があるのでしょう。
急いでいたら、見ることはできません。見てるつもりであって、実際は見てないことがあるような。
特にこのクリスマスの時季、世の中も、教会も急がしすぎで、ついていけてません・・・
まあ、ついて行くのはイエス様だけですね。
この時季、周りの草でもゆっくり見ましょう。イエス様が「木」を見なさいとおっしゃらずに、当時野の草で、夜には暖をとるために炉に投げ入れられたであろう、「野の百合」を見て学びなさいとおっしゃられたところが、面白いですね。
このことを
JOYさんの言われるように
実行して行きたいです。
そしてモチロン
「着いてゆくのはイエス様です。」
しかし このテーマは とてつもなく
深いようです。
「ユックリと進む」、
これはどうも 実際的な
私たちの内なるイエス様との親密な関係、
そして
彼への私達の実践的な従順を除外しては
あり得ないものかも 知れませんね。
更に求めて行きます。
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