そうそう、
今Ⅱ列王記の、私の好きな「若きヨシヤ王」のところを
読んでいるのですが、
*
Ⅱ歴代誌35章を参照してみると、ヨシヤは
エジプト王パロ・ネコを通して語る神の声を聞くべきであった。
しかし 律法に忠実であり 神を畏(おそ)れる王ヨシヤも
その時 パロ・ネコのことを「何を言うかこの異邦人め」等と
思ってしまったに違いない。
新約的に言うならば、ヨシヤはその時
「冷静に環境の背後に立つ」ことを忘れてしまったのだ。
鼻息を荒くし、即ち「魂を荒くし、遂には血肉までも
煮(に)えたぎらせ」てしまったヨシヤは
「その時点での自分の本分は何か」
即ち「みこころ」は何であるのか、を告げ知らせる
「静かな内なる人」の声が聞えなかった、と言えるだろう。
死の傷(きず)を負い
出血の体を ゆれ急ぐ車に委(ゆだ)ねるばかりのヨシヤは
わずか39才にして世を去らねばならない自分の最後を
どう見つめたのであろうか。
「かわいそうなヨシヤ、
それまでの君はとても素晴らしかったから、
なお更あなたの最期(さいご)が残念でならないのです。」
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