九月
気持ちのよい朝です。
外では黒ツグミが元気よく歌っています。
さすが阿武隈 今朝は驚くほど涼しい朝でした。
部屋や家の「全体」が美しく見えるかどうかは
個々の物品の単独の値段や豪華さにあるのではなく
それらがたとえ安物であっても
個々の物品が「どう配置されているか」
にあるようです。
(私はこれを自分流に
「プロポーション」と呼んでおります)
俳句のよさも
単語の選択と配置で決まる
ように
私一人が見つめられたなら
私はどうにもならない人間であっても
もしも私がキリストの体
エクレシアの中にあり
神によって
適切な場所に置かれたのなら
私でさえ
キリストの体の故に
その全体の美しさの故に
美しくも見えるようになる、
ようなものかも知れません。
8 件のコメント:
こちらは昨夜から今朝も驚くほど蒸し暑いです。
キリストの体のゆえの美しさ・・・アーメンです。
エクレシアで集まるときも、そのいのちのなかで、私たちはその美しさを味わうのかと思います。
更に
欠けた所や
見苦しいところさえ
全体の命が補い 癒すことが出来るなら!
すみません。
こちらを見てなかったもので
なるほどプロポーションですね。
出るところは出てへっこむところはへっこむ、それは美しいですね。
サタンもこの比率をずいぶんと使っているようですが、さすが物まねは本物と並ぶと悲しいものがあります。
キリスト者と言っている方の中でもイエスを物まねしようとなさる方もいるようですが、同じですね。
何か選択に迫られた時、「イエスならこんな時どうなさるだろうかと」考えそんな行動を自分でやってみる事等もただのいい話にすぎませんし、そもそも真似無理です。
本来の場所に置かれるだけでそれは「非常に、よかった。」となりますね。
本来の場所に置かれる、
それですね。
後は歩くだけ。
我を生かす道、
ただこの道。
この道を行く。
武者小路実篤
だったかな?
実篤ですね。
この道のほか我を生かす道なし。この道を生きる。
でしたでしょうか。生きるではなく、歩くだったり、少し語句が違うものもあるようです。
鳩さん 有難う。
実篤は
キリストに対して
ある程度の理解はあったのでしょうね。
彼が真に
「永遠の命・キリスト」を
受け入れたかどうかは分かりませんが・・
いずれにしろ、
多くは漠然とですが
人は、
「一本の確固とした歩くべき道」が
備えられているはず、
というコモンセンスは
持っているのではないでしょうか。
しかしそれ以後更に
「私にその道を示して下さい」と
真剣に神に向かうかどうかで
「運命」は決定されると
私は考えております。
「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄(きはく)を僕に充(み)たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため」
半強制的におぼえされられましたが、
イエスが道と知ってからは前に道を見出す事も楽しみとなりました。
遠い道程も一人で無いなら決して悪いものでもないし。
以前ははるか離れていたのですが、
今は近いものとされて、何という幸いでししょうか。
自分に満ちているとは。
高村光太郎キリスト者?
と言いたくなるような詩です。
ただ私達は
永遠において
「イエスによって既に完成された道」を
ただ「なぞって」前進するだけ
なのですが
実感としては
「僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる」は
とても共鳴できます。
真に「この道」を歩む人ならば
実に「フレッシュな旅感覚」を
人生の最後の日に至るまで日々持ち
続けるのではないでしょうか。
言われるように それは
共に歩んでくださる「今日のイエス」が
永遠に古びることのない
瞬間瞬間フレッシュなお方であるから
なのでしょうね。
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