2010年5月19日水曜日

礼拝とは

「人の霊の中での 神との交わり」です。

それは決して
特定の場所と時間を定め
立ったり座ったりすること ではありません。
礼拝と「格式・形式」との結び付きは
総ての宗教に共通する明らかな特徴です。


イエスは言われた:
イザヤはこう書いているが正にその通りである。

この民は、口先では私(神)を敬(うやま)うが、
その心は、私から遠く離れている。
彼らが私を「拝んでも」むだなことである。

あなた方は、神の戒めを捨てて、
「人間の言い伝え」をかたく守っている。
(マルコ7の6から8)


「人間の言い伝え」とは
神のことば・聖書にないことです。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

人の決め事による礼拝の形式にこだわるから、教会に疲れた人がいるのだと思います。
また、ショー化する礼拝だから、働き人が少ないと嘆くのでしょう。
まさに霊と真をもっての交わりが礼拝だと思います。

電気屋 さんのコメント...

SUGERさんは山を散策しながら主を礼拝していらっしゃるわけですよね。

”「人間の言い伝え」とは
神のことば・聖書にないことです。”

その通りですね。どれほどそんな垢がついていることだか自分を振り返り怖ろしくもあり、ありがたいことです。
ただ、主に感謝

Mr.Sugar さんのコメント...

確かに 礼拝は断じて
ショーではなく、
興行でもありません。
だから
礼拝に人間の隠れた
「客寄せ根性」ないしは「パンダ」は
少しも、一匹もあるべきではありません。

あるべきは
ただ単純な キリストと兄弟姉妹を
慕う心です。

山の彷徨(ほうこう)は礼拝に最適です。
山には見渡す限り 気を引くものは
一切なく、
あるのはキリストの美しさを
表現するものたちばかりです。
(きのうもツツドリがすぐ目の前の木々の
間で啼いてくれました。)

ただ足の向くまま気の向くまま 
神とサタンの二者を目の前に置き、
彼らに交互に
話しかけ、糾弾するのです。
こんなに楽しいことが他にあろうか、
と最近つくづくと感じております。

ビオラ さんのコメント...

主にあって、こんばんは。いくつかの質問をさせて下さい。

1.「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」(ヨハネ4:21)

このみことばにより、主イエスは、霊と真理によって捧げられる礼拝は、特定の場所に限定されないことをお示しになられました。しかし、一方で、そのことを認めながら、シュガーさんが、山での彷徨が礼拝に「最適」とおっしゃっていることは、失礼ながら、それと矛盾しているのではないでしょうか。

2.さらに、形式的な礼拝を飾り立てる聖像や聖画が、真の礼拝に必要ないのと同じように、自然美も、真の礼拝とは本質的に無関係であると思います。自然美にも、使い方によっては、十分な客寄せ効果が生じます。パウロとシラスは何もない殺風景な牢獄で主を礼拝しましたが、神はその礼拝を喜ばれました(使徒16:25,26)。

私たちが霊と真理から神へ礼拝を捧げる時、場所や風景や形式は(たとえ形式があっても)もはや問わないのではないでしょうか。形式を伴う礼拝が全て偽りなのでなく(それはうわべの判断ですし、形式は秩序を守るために最低限度は必要です)、霊と真理がない礼拝が偽りなのです。

3.「神とサタンの二者を目の前に置き、彼らに交互に話しかけ、糾弾する」とのシュガーさんのお言葉ですが、失礼ながら、神とサタンに交互に話しかけるような「礼拝」をせよと、聖書のどのみことばが教えているのでしょうか?

4.また、「天はわたしの王座、地はわたしの足台」(イザヤ66:1)と言われる方を、どのようにして、人の意志に従わせ、モノであるかのように「目の前に置」くことができるのでしょうか? また、人が自分の意志によって、神とサタンの両者を「目の前に置く」ことは可能なのでしょうか?

5.神は聖なるお方であり、このお方に近づくために、モーセもヨシュアも靴を脱ぐよう求められました。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。」(詩篇51:17)とあるとおり、畏れ、へりくだって、悔いた心がなければ誰も神に受け入れられません。ですが、「こんなに楽しいことが他にあろうか」というシュガーさんのお言葉には、恐れながら、畏れかしこみつつ主の御前に出るという姿勢よりも、(その奇妙な)礼拝が、まるで愉悦の源となっているかのような印象を受けるのです。

6.さらに、みことばは言います、「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、『主があなたを戒めてくださるように。』と言いました。」(ユダ9)

このように、権威ある御使いの長でさえ、サタンを直接、罵ったり、糾弾せずに、主に裁きを委ねました。だとすれば、人に過ぎない者がサタンを直接、糾弾することは、みことばにかなっているのでしょうか?

以上のシュガーさんのご主張は「聖書にない」事柄のように感じられましたので、あえてご質問させていただきました。突然の質問で、もしも不愉快に感じられましたら、どうぞご容赦下さい。