しかし、彼が「肉の罪から解放する神の完全な備え」を見出すならば
彼は罪深い生活から免(まぬかれ)ることは十分可能です。
その時点に至り 彼の生活は 魂が肉体を支配する生活に達した
と言えるのです。なぜなら彼の魂は彼の肉から切り離されたからです。
(注:しかし このすばらしい神の恵みによる霊的な勝利が 彼を
高ぶらせ、それが彼をして次の更に高い段階へと進むのを妨げることが
ないわけではありません。人は本当に難しいものです。)
所がここに問題があります。それは 彼の魂は 依然として「最も権威
(けんい)を持つべき人の霊」を押さえつけ、魂が霊にからみつき、
聖霊でさえ 魂の抑圧のもとに服させられていると言う事実です。従って
彼はどうしても「魂の命」によって生きる自己本位な生活をしてしまう
ことは免(まぬが)れません。
彼は実際には 自分の霊がどこにあるかさえ分からないでしょう。
何故なら、彼の霊はまだ魂から切り離されていないからです。
(霊が魂から切り離されるのはただ 十字架と神のことばによる以外
他に方法はないようです。)
にもかかわらず その生活は人の目には十分立派な生活に映(うつ)る
でしょう。また ことによっては一定期間 人前で「霊的な人」を
演(えん)ずることさえ可能かも知れません。
しかし彼は事実として完全に「魂的な人」です。(Ⅰコリント2の14
原語)その生活は本当の所 自分にさえ真の満足を与えることが
出来ません。更に何と 彼のすること なすことの殆(ほとん)どが
神の敵の地位に立つことは避(さ)けられません。なぜなら、
彼の自己、魂は聖霊をも抑圧(よくあつ)し本来「神が座るべき座」に
自分をすえているからです。
しかし もしも幸いに この大変な事態(じたい)に彼が気付くならば、
すなわち 自己、魂の命こそが諸悪(しょあく)の根源(こんげん)である
ことに気が付くならば、彼は「自分の命から解放される生活」にあこがれ、
自分の命を無にすることを願い、そのようにして「自分との戦い」の生活に
入ることでしょう。「自分自身の魂の命までも憎むのでなければ、
私の弟子であることは出来ない。」(ルカ14の26~27原文)
なぜ彼は自分の魂を憎むのでしょう。それは「彼そのもの」「彼の魂の命」
が聖霊(最も身近な神)をさえ圧迫 抑圧(よくあつ)しているという
深刻(しんこく)な現状を彼は 神からの光の中でその時 初めて
見出すことが出来るからです。
0 件のコメント:
コメントを投稿