2010年4月13日火曜日

ある御夫妻へ(2)

私は新約聖書にたくさん出てくる 「二 三人の単純な交わり」こそ、
神の働きの原点であり、敵との戦いの前線であると信じています。
(実は全聖書をみてもそうです。)

キリスト者はつい 大きくてハナバナしい集会を慕(したい)ます。
しかしそれは キリスト者というよりも実は「人間の本能」から出てくる
願望です。人は群がる時、何か防衛されているという錯覚を抱(いだ)く
のです。さらにそこには 自分達の権勢を誇るという人の肉が
顔をのぞかせているのかも知れません。今日「教勢」(教会の勢力)
という言葉さえあるそうですが、本当でしょうか?

しかし私達はそうであってはなりません。
先ずは私達の霊の原点において 小さな交わりを大切にしなければ
なりません。主が言われたように、実はそこにこそ主がおられ、
また主の総てがあるのです。

全くゼロからでよいのです。
そうです、ゼロからです。そこには確かに「尊いものの総て」が
凝縮(ぎょうしゅく)されて存在しております。
神の原則はいつでもゼロからであり、更に言えば、真に神からのものは
「呪(のろ)いによってもたらされた死」の中から初めて
発芽(はつが)してくるのです。(この度 お二人は
その呪いと死を既に経過されたのでしょうか。)

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