私が 私の「肉体によって」生きているならば、
間違いなく私の生活は罪によって悩まされるでしょう。
私がおもに「私の魂」によって生活をしているならば いずれ
「私そのもの」こそ 神に対して、極めてやっかいな敵である
と知るでしょう。
しかしもしも現実に「罪と自分」がキリストの十字架の
偉大な力によって私の足の下にされ、私が霊によって生きるならば、
その時こそ 見えない悪魔や悪霊達こそが 神と私の最終的な敵
であることを目撃(もくげき)することになります。
それは正に霊対霊の激しい戦いとなるでしょう。(先人の言葉より)
*
きのう 例のピアノコーナー(ピアノ室と言うにはあまりにてぜま)
のガラス戸サッシが数時間の悪戦苦闘(あくせんくとう)のすえ
見事ピタッと収(おさ)まったのです。
これも素人(しろうと)大工のささやかな喜びです。
今日はそのコーナーの壁に穴を開け、ガラスを用いず
プラスチック板で フィックスの窓を作って見ようと考えております。
その目的は 玄関ドアの小さなステンドグラスに当てる
光を呼び込むためです。
フィックスとは、いわゆる固定の「はめ殺し」窓のことです。
このやり方ですと、ものすごく安価に窓を作ることが出来ます。
今日こそ 山もようやく気温が上がるとか、嬉しいです。
2 件のコメント:
いいですねはめ殺しの窓
私もイエスキリストにはめ殺していただきたいです。
そこから神の光がとおってくるならどれほどさいわいでしょうか。
何気ないいちにちの中の裏側で、霊的な戦いや、深い意味があるものですね。
ですから何気ない日こそすばらしいと感じるようになってきております。
今日は野尻湖面上でも19度までいったようです。でも水は凄く冷たかったです。
まあ、周りはまだ雪が見えてましたから、でも実に美しいです。水に浮かんでいると霊的なこと凄く感じられます。
聖霊の湖面に私と言うポンコツボートを浮かべて進む人生、楽しいです。
いつ沈んでもそこはいのちの泉
ボートは汚くとも湖は美しいです。
神からの光を受けて金色に輝いていてこんじきに輝いています。
春はそこにあります。
手を伸ばすと届くところにあるものそれは主がくださったものと感謝して何気ない日々を過ごします。
イエスキリストに
はめ殺していただきたいです。そこから
神の光がとおってくるなら
どれほどさいわいでしょうか。
↑
野暮な解釈をすると
前半は十字架、後半は復活ですね。
何気な一日
↑
電気屋さんのその心境、よくわかります。
今あなたは「何者か」によって語られて
いるのでしょう、確かにあなたの霊の中と。
その内容の「頭的理解」はいずれ
ついて来るのではないでしょうか。
私なども 山の中に一人 人間と全く
話さない日が何日も続くのですが、まるで
退屈と言うことがありません。
正直 毎日極めて多忙、
一日があっと言う間に過ぎて行くという
真に不思議な日々です。
その中身について話し出すと
時間がいくらあっても足りないでしょう。
聞く人が誰もいないのは多分ラッキー!
何気な日々ほど すばらしいものは
ありません。
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