聖書には教会が出てきます。そして聖書は
「聖書が指し示す教会」を私達に提示しております。
ですから私は教会を否定することが出来ません。
私が否定出来ないのはその「聖書が指し示す教会」です。
所が「今日のいわゆる教会」の殆どは「聖書が指し示す教会」
と比べる時、余りにも変質してしまっており、それらを教会と呼ぶ
ことは到底不可能です。ですから、私はどうしても「今日の
いわゆる教会」を「カッコ」でくくらなければならないのです。
所がいくらカッコでくくって見ても、人々がその言葉・教会に接する時、
聖書が指し示していない、余りにも多くの不必要なイメージを抱いて
しまうのです。例えば人々は「屋根に十字架のついた建物、一人の牧師、
そして日曜礼拝と言う三点をワンセットとしたコミュニティ」を容易に
連想するでしょう。しかし、その三点セットは断じて聖書で指し示す
教会ではあり得ません。
(教会はそれら三点ではなく、ただ「一点キリスト」です。)
当然それらの中にも「本来の教会」が持っている性質、即ち「真正の
キリスト者の中の復活の命」が含まれていることは充分あり得ることです。
(故に厳密に言って、その部分だけは教会と呼べるでしょう。)
しかし、そのコミュニティそのものは、「聖書が指し示す教会」
でないことは余りにも明らかです。
ですから最近私は敢えて、教会と言う言葉の使用を避け、
その言葉の原語・エクレシアを用いているのです。
*
さて、神から生まれた、
「真正な古今東西のキリスト者の中に存在するキリストの復活の命の総計」
がエクレシアであることは明らかです。それは時空を超えたエクレシアです。
しかし、問題なのはそのエクレシアが時空の中にどう現れるか、です。
どうすれば、時空に現れるエクレシアであっても、その変質から逃れ、
聖書が指し示す本来のエクレシアの性質をキープ出来るのだろうか、
これが問題なのです。
7 件のコメント:
そのことも主に聞けばいいのです。主の望まれるときと方法を示してくださるでしょう。そのときまで、信仰という忍耐の時を通らなければならないかもしれませんが、それこそが十字架を負う歩みであると信じています。
神の約束は必ずそのようになるからです。
アブラハムは約束の成就まで25年待ちました。わたしの友人でクリスチャンではないのですが、救い主を700年も待ち続けているイスラエルの民がいることを知って、驚いていました。その当時わたしもキリストを信じていなかったので、彼は一体なにに感心しているのかさっぱりわかりませんでしたが、今はよく分かります。そして、その約束の成就を待つ忍耐のあいだにも、私たちの見えないところで、「栄光から栄光へと主同じ形に変えられてゆくのです」ということの真実を見るかもしれません。それは父なる神に対する絶対的な信頼でしょう。鏡のように主の栄光を反映するとは、こういうことはのか!と自分のなかにおこっている心や重いの変化に気づき、キリストの思いを知ることのヴェールがはがされえ行く感じです。
今日も、いつものように私の生活のなかに起こることに対して、主に打ち明け、時には泣きながら、独り言を言うように、主と語り合います。私が主に近づけば近づくほど、御言葉を通しての語りかけは、的確で、心の深いところに納得として、しみ込んでくるのです。ですから、この主との交わりから後退するなどということはありえません。そこはわたしと主とのまさにパラダイスですから。
はじめまして。ルーク唐沢さんのサイトからきました。(今日の教会)についてはアメリカに住む我が家でも問題だと感じています。よって長年メンバーであった大きな教会からも脱会して今はホームチャーチをしています。日本でわずかなクリスチャンの中でもMr.Sugarさんやルーク唐沢さんのように解放されているクリスチャンがいるなんて、嬉しいです。”教会”という言葉、”宗教”という言葉も私は好きではありません。こういう言葉のお陰でキリストを信じることがまるで異変なことだと思われるのではないでしょうか。
鷲のように翼を張って さん、
アーメンです。主は必ずなさるでしょう。
主の時に、主の方法で。
信じます。
さて、あなたの周りで、主がどんなことを
されておられるのでしょうか。今度そんな
ことも書いて見て下さいませんか。
*
もみじ饅頭さん、
アメリカにも同じような考えの人々が
いたんですね。嬉しいです。しかも
日本語が通じるとは。
実は私 密かに、
「グローバルに、しかも
ホームチャーチ的な手段で」
主は何かを既に始めておられる
のではなかろうか、と大いに期待して
いるのです。
信じます。主はなさいます。
例えば、霊的反発を感じて沈んでいるときです。心からキリストの命の喜びがきえて、変だなと感じたときです。 助けをひたすら求めていると、御言葉により状況が見えて来ました。それは、
この内側から出てくるものが
人を汚し、
神にふさわしくないものとするのです。
マルコ7:23
クリスチャンでも、肉のなかにいる間は、肉による束縛から逃れることはできません。ねたみ、悪口、高慢、あらゆるおろかさ、貪欲、欺き・・・。神は完全に義なるかたですから、私たちにたいする一方の評価は、
エルサレムの住民は森のぶどうの木のよう
なものだ。火に投げ込まれる前も、投げこ
まれたあとも、まるで役に立たない。
わたしは敵のように、かれらの前にたちは
だかり、彼らが一度は火から逃れても、
次のときは必ず火に追い込んでやる。その 時お前たちは、わたしが神であることを知 る。 エゼキエル15:6,7
これは、バビロン捕囚時の神の裁きと将来にたいする希望と慰めのことばです。
人は、善悪でことを裁きたくなるときがあります。旧約の世界で自分の義をふりかざした
くなるものです。
しかし、キリストは恵みとあわれみの神として、人の救いを完成してくださいました。
ツロ・フェ二キア人の女がイエスに娘から悪霊を追い出してくれるように求めた話が聖書から開かれました。
「子供たちのパンを取り上げて、子犬にな げてあげるのはよくないことなのです。」
「おっしゃるとうりでございます。でも、
先生、食卓の下の子犬だって、子供たちの パンくずは食べるではありませんか。」
この答えにイエスは感心しました。
「実に見上げたものです。さあ、安心して 家にお帰りなさい。悪霊はもう、娘さんか
ら出て行きましたよ。」
マルコ7:27,28
イエスはこの女の信仰を「実に見上げたものです」と非常に高く評価され、喜ばれ、悪霊を追い出されました。 これが、今の新約の時代の神の私たちにたいする評価です。神は完全に義であり、同時に愛の神であることが両立するのは、キリストの贖いがあったからですね。 そして、キリストは私たちもそのように、赦されたのだから、赦すように求められます。私の心の中には、この自分のものではない、「赦し、恵みと開放を信じよう」という、新しい思いがあったことに気づきました。「実に見上げたものです。」と、キリストは、求めてくもの、必ず答えてくださると信じることを私に求められました。
素直に「はい。主よあなたの御心のとうりになりますように。」と応答したのです。その時点で、心は晴れやかになり、キリストの心を共有する喜びを知りました。
マルコ8章からは
神に感謝の祈りをささげてから、
ちぎって弟子たちに手渡され・・・
の御言葉が心にしみてきました。
キリストはパンの奇跡が起こる前から、神が
祈りに答えてくださることを信じて感謝をしているのです!なんという信頼でしょうか。
このように、日々、事あるごとに、私にかかわり、さとし、励ましてくださるのです。
なかなか言葉にすることが苦手なものですが、主の恵みをかたれたことを感謝します。
鷲のように翼を張って さん、
「はい、あなたの御こころの通りになります
ように」と言うお言葉、そして
イエスの父への深い信頼、への言及
に接し、感謝と共に
今の私への大きな慰めとなりました。
それにしても
ツロフェニキアの女の
「イエスに対する信仰」は一体
どこから来たのでしょう!
実はその時女は言ったはずです:
「砕かれたパンとはあなた(イエス)です。そしてそれが、
ユダヤ人世界からこぼれ落ち、
異邦人の私達へ及ぶはずです!」と。
その「思いがけない」信仰が
イエスの御心に
強く触れたのではないでしょうか。
私達もその女が得たような啓示を
天から頂きたいものです。
所で兄弟(それとも姉妹?)
「よろしければ」その内、メールも
いただけませんか?
もしかして、もう私が存じているお方
なのでしょうか!
dksng475@ybb.ne.jp
はい、菅原さんはご存知のはずです。千葉の増田さんの所でもお会いしましたね。江東区のSです。 こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。
それで了解しました。
前進しておられる様子、
ただ主に感謝です。
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