*ある質問に答えて*
私の場合であれば、
①息子の死に関して、邪悪な者から射こまれる諸感覚(虚構)
対
それに対抗する神の真理、
と言う構図を先ず知ること。
②霊を用いて「祈ること」と「宣告すること」(注1)
と言う二つの手段によって、
真理をして、その虚構に対抗してもらうようにするのです。
即ち、働くのは私でなく真理です。
力はあくまで、私からではなく「真理、即ち神のことば」から
来なければなりません。
・祈りの場合:自分の霊を、まっすぐ神にのみ向けて、
神に対し、敵への「仕返し」を求め、要求する。(注2)
・宣告(証しのことば)の場合:「私の霊」を強く用いて
「その虚構(敵が築く、虚偽と言う山)やウソの諸感覚の実体者」
に鋭く真理を「射こむのです」。この場合これは
「私からの、邪霊に対する直接的な攻撃」(悪魔に対する抵抗)に
なりますので、必ずキリスト血の覆いが必要です。
この戦いは実に大変です。
さて、私達の意志力はどうしても必要ですが、
しかし、その意味は
私の意志の力を敵にぶつけると言う意味ではありません。
私達の意志の力で敵と戦うのではありません。
そうではなく、
私が自分の意志を用いて、先ずは①「真理と異なる総ての諸感覚」を退け、
②明確に神の真理を取り、真理の側に立ち、
神の真理が虚構に対して力を発揮出来るようにする、
ということに過ぎません。
私が自分の力を用いるのであるならば、私は必ず敗れるでしょう。
*
あなたの場合は、このたび、
レーマのことば(あなたの霊への聖霊の直接的な語りかけ)
「自分をおさめなさい」があった、と言うことです。
もしそうであるならば、あなたが受けたそのことばは、
聖書のことばと全く等しい権威と力がある筈です!
あなたは先ず、それを信じなければなりません。
それはサタンにさえ効力があるのです。何故ならそれも
「神の真理」であるからです!
(真理とは単なる事実以上のものです。
真理というとき、それは先ずサタンのウソを意識しています。
そして真理は虚偽に対抗し、虚偽を打ち負かすと言う必然的な
機能と力を含んでいます。
真理はそのためにも私達に与えられているのです。)
次に、ですから、
聖書のことばと同様に、その与えられたことばの持つ力と権威を
敵や「あなたの戦いの現場」に対して使用しなければなりません。
「敵よ、これは神のことばである」と。
*
もし、あなたがそうするならば、
確かに「真理はあなたを自由にします」。
即ち、神の真理の言葉には本来充分な力があるのであり、
あなたを「諸霊の縛り、ウソによる拘束」から
容易に自由にする事が出来ます。
もしも、自由と言うものを実際的、具体的に定義するならば、
自由とは、
「諸霊の縛りから解放され、聖霊の保護の元にあること」
に他なりません。そこにこそ「実際的な」自由があるのです。
☆ ☆
(注1)
これが「証のことば」です。(黙12の11)
(注2)
ルカ18章、力のない「寄るべなきやもめ」(私達)の話:
「私の相手を裁いて、私を守って下さい」の別訳は
「私を訴える者に仕返しして下さい」です。
「私を訴える者」とは、キリスト者に攻撃を加え、
「あなたの方に非がある、あなたこそが悪い、そして更に
あなたの状況は暗く、もう救いようがない、と
執拗につきまとう「あのウソつき」のことです。
これは正に法的な戦いです。
その際先ず、あなたに「私は私の為の裁判官や弁護士」の
側に明確に立つのだ!と言う意志がなければなりません。
そうでなく、あなたが何とはなしに受身的な態度であるならば、
ウソの方が必ず勝ちます。
それは、この世の法廷においては時に、ウソや金が
勝利するのと全く同様です。あなたには先ず、ぜひとも
「私はこれから法廷闘争をするのだ」と言う
明確な覚悟や意志が必要なのです。
私達の真の裁判官は
ルカ18章とは違い、愛のある全能の神ですから、
あなたは「見えないやくざ」の空しいオドシの「実感」に恐れることなく、
先ずは「あの裁判官・神」に日夜しつこくつきまとい、
あの嘘つきのことを日々刻々訴えるべきです。
「神よ、彼に仕返しして下さい!」と。
それが、私達の祈りに他なりません。そうするならば、神は
あなたの状況に現れ、力を出される事でしょう。
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