わが次男、潤、35歳は18日1:02PM 肉体の束縛から解かれ、
主イエスにある全き安息に入れられました。(実際には正午頃)
公的文書に記録された「状況説明」は高所からの転落です。
潤はある「教会」の小学生クラス、中高生クラスによく出席し、
中学生の時にバプテスマを受けています。その頃、その教会では
「主の御名を呼ぶ」ことを熱心に行い、潤もしばしば
「オー、主イエスよ!」と叫んでおりました。
とは言え彼は近年、主から遠ざかり「イエス様のことが分からない」
などと兄に話していたそうですが、霊の外側の人の機能、魂の思いに
おける思考によって、クリスチャンがそのような発言に至って
しまうことは十分あり得ることです。
永遠の救いは単なる感覚や思考の問題ではなく、誕生、命の問題です。
従って一度イエスの復活の命によって、人の最深の機能である霊の中で
誕生した者は永遠の完全な救いにあずかります。
「主の名を呼ぶものは皆 救われる」(使徒2の21)
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ16の16)
などの御ことばによっても彼の救いは確信出来るでしょう。
*
21日朝、ある葬儀ホールの一室で、
「家族だけの」小さな会合を持ち、
その後、火葬場へ向かいます。
その他、一切の儀式的行事は行いません。
7 件のコメント:
このようなときにふさわしい言葉など誰も持ち合わせてはいません。ですから、以下の書き込みがよけい兄弟の心を煩わせることになりはしないかと心配しつつ、それでも何かを書かずにはいられずにキイを叩いています。
子を失う悲しみは、「慰めを拒むほど」のものと表現されています。
たとえそれが、「ひとり子をお与えになったほどの愛を味わうため」であったとしても、悲しみは、ただ純粋に悲しいのです。
悲しみを、何か他の価値に置き換えることなど出来ようはずもありません。
このような究極の状況での信仰の告白にともに偉大な主権者の前にひれ伏します。
私の義父が召されたとき、その枕辺で泣いて祈りました。そのとき、悲しみの中で主が与えてくださったのは、「祝福に満ちた唯一の主権者」というみことばでした。このことばは、いつも私をどこかで支えてくれています。
お疲れが出ませんように。ご家族の上に主にある平安がありますように。
どんな言葉を書けばよいのか、どう祈ったらいいのか分かりません。
ただうめきをもって祈らせていただきました。
主の慰めに満ちた愛が包みますように。
兄弟達、本当に有難う。
昨晩、今まで実家には殆ど来ることのなかった末の弟、三男の渉が
駆けつけてくれました。
これは特に妻にとって
大きな慰めになったことでしょう。
今日は八千代市役所と潤の家に
行かなければなりません。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
また生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
わたしを信じる者は死んでも生きる
この御言葉によって、死の悲しみに沈む私の魂を光の中へと、主は移してくださいました。ただ希望について語られたのではなく、すでにいのちに移されているという事を見せてくださったのです。
彼は主の中で生きている。
主イエスにあって私たちも彼とともに生きている。
主イエスのいのちの中に、私たちはともにいる。
「なぜならば私は、死も、生命も、御使いたちも、支配者たちも、現在のものも、将来のものも、力あるものも、崇高なるものも、深遠なるものも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできない、と確信しているからである」
十字架の中に溢れている神の慰めと平安が
ご家族の方々を豊かに包んでくださいますように・・心からお祈りいたします。
姉妹、とても感謝です。
それではこれから、八千代市の
潤の部屋に行って来ます。
一寸だけつらいところがありますが・・
シュガーさんのことご家族のこと、「我は、復活なり」とおしゃった私たちの主イエス・キリストと共に祈ります。
コージさん、有難う。今帰ってきました。
その車の中で、
この潤の死は様々な面で益に働くに
違いないと言う確信を与えられました。
ただ主に信頼し続けたいと思います。
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