2008年8月20日水曜日

人がある所に集まると

「ふっと力を抜くと次から次から、感謝や賛美のことばが静かにあふれ出し、
今回集ってくれた兄弟姉妹や集うはずだった兄弟姉妹、また集いたくても
集えない兄弟姉妹への想いが私の中を流れて行くのを感じる。
何かが確実に始まっており、動いている。どこかに集まることに特別な
意味があるわけではない。キリストのからだとは何なのかということを、
その奥義を信仰によってとらえることが、集まってそこにいることよりも
重要だ。遠方に住んでおられたり、健康のことや、さまざまな事情で
簡単に集まることが許されない兄弟姉妹には、そのことを強く伝えたい。」

と言うあるキリスト者の言葉に触れた。
人はよく あるところにある人たちが集まると、その人たちを
ある一くくりのフレーズで表現しようとする。 しかしそんなものは何の
意味もないし、私達にどんなフレーズもいらない。
意味のあるのは唯、時空を越えたキリストの一つのからだであり、
必要なのは そこにいた人もいなかった人も 
その奥義を信仰によって捕らえることだけである。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

Sugarさん、そうなんですね。ポイントは時空を超えたという部分です。超有名なヨハネ3:16の御言葉「御子を信じる者が、・・・永遠のいのちを持つためである」。私たちはこの永遠のいのちの永遠を時空内の時間的感覚の永遠と捉えている傾向が強いと思います。この時空での不老不死といったイメージなのではないでしょうか?あくまでも時間軸があって、その時間の中で、ずっと果てしなく続く時間に追従するいのちといった捉え方を無意識にしているのではないでしょうか。しかしこの永遠とは神そのものであり、時空とはまったく縁がなかった神のいのちをいただいてしまうという途轍もないことなのですね。次元は異なるかもしれませんが、広い意味で敵もこの時空に存在しますが、いずれこの時空内の時間は終わります。しかし御子を信じる者は、この時空の時間が終わった後も神である永遠へと入っていくのですね。そしてまた、「御子を信じる者」とは、原文では「彼(復活のキリスト)の中へと信じる者」、つまりキリストと一つであるということを、ただ信じる者ということになります。
ハレルヤ!

匿名 さんのコメント...

ヘブル11:1「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することであり、見えない事柄を確認することです」。この訳はすでに皆さんご存知だと思いますが、望んでいる事柄、見えない事柄とは何でしょう?言い換えれば、信仰とは神の世界を見る器官です。一般的、霊的世界と言われているものと神の世界は異なると思います。よく第六感(官?)とか霊的能力とか言われるのは、あくまでもこの時空内の多次元(表現がカルトっぽいですが、他の表現を知らないのでこれを使います)を見る感覚器官または能力だと思います。しかし聖書でいう信仰と言う器官は、本来であればこの時空とはまったく縁のない、神の世界、永遠の世界を見る器官です。霊的能力とは似て非なるものです。ニューエイジや夢の現実化法は、この時空内の現実化する肉的信仰とも呼べるものであり、聖書が言っている信仰とはまったく異なるものです。まあ世間一般から見ればどちらもカルトに見えるのでしょうが。キリスト者の信仰は神的信仰でなければならないと思います。こういった観点でも、まったく時空とは縁のない永遠と神というテーマは重要だと思っています。我々は神的信仰という器官により、永遠、神の国を見る必要があると思います。これが啓示というものではないでしょうか。百聞は一見にしかず、我々は神の国を理解するのではなく見る必要があるのではないでしょうか。