2008年8月17日日曜日

「奇妙なやり取り」の必要

「私が神の神殿」、ですか?でも何でこんな私のうちに神様が住むことが
出来ましょう。心の中には絶えず戦いがあり、そこにはドロドロしたものが
つまっていて私は全然清くなんかないのです。また「キリストが私のうちに
生きておられる」ですって?
はい確かにパウロさんはそうかもしれませんけれど・・。

信仰によって受け止めればよいのでしょうが、私がそうするととても
ウソっぽくて、無理して信じているなと・・そして信じられない私が明らかに
なって・・これは一体何なのかとわめいているのが、本当の私の姿
なのです。心は荒れ模様、信仰の歩みはなんと難しいのでしょう。
喜んでいるときも確かにあるのです。
しかし実際は上に下にと忙しいのです。


メール有難うございます。
早速ですが今あれこれ 難しいことを言ってもしかたがないでしょう。
ですから今日は敢えてある具体的な「ノウハウ」を試みて見ましょうか。
それは「キリストに自分を重ねること」です。

先ずは
私達の「あらゆる望み」はキリストにしか無いということを確認しましょう。
総ての「よきもの」は絶対的に 唯一キリストから来るのです。
従って先ず、道は「あらゆる善であるキリスト」に自分を重ねるしかない、
と言うことになるのです。この宇宙の中で価値あるものは唯キリストです。
次にそれ故、私がそのキリストを獲得すること、獲得するとは即ち
私がキリストと真に結合され、重なること、私とキリストが完全に一つと
されることが価値ということになります。

そこでもしも仮に
キリストとあなたが重なる等と言うことが本当に在り得るならば、即ち
現実に「あのキリスト」があなたと一つとなると言うことがあり得るならば、
その結果 あなたの身からキリストが現れない筈がありましょうか!
ま、とにかく理屈はどうでも 私たちは何とかしてこの経験「キリストが
私から出現する」に到達したいのです。即ち「キリストと私の一つ」の現れを
この地上においてさえ見たいのです。

御言葉から言えば、
神は既にキリストと私を完全に一つに重ねておられます。先ずそれが
真理、確固たる事実でない とするならば 次に何かが起こって来る
可能性は全くjありません。しかし感謝します、それは天地の間に堅く
定まっている神の真理です。それ故に私達が負うべき責務は唯一つ、
それは信仰、即ち「神のことばを信じ、その上に安息すること」だけ
と言うことになります。
ですから次に、どうすれば「私たちの信仰」を実際に機能させるのか
と言う問題が浮上することになります。

しかしこの段階になると
キリスト者はある試行錯誤に入って行くことになります。私達はよく
次のような祈りをし、ある停滞をさえ感じることが多いのです。
「主イエスよ、あなたに私を重ねます。私をあなたと一つにして下さい。
あ、少し違いました、あなたは既に私をキリストと一つにして下さったの
でしたね、分かりました。 それではただ信じます。・・でもあなたに私を
重ねます、あなたと一つにして下さい」 と言うふうに。しかも、そこには
「こんなことをやっていて 一体どうなるの」と言った感覚さえ残るのです。
それは一見 「奇妙な神とのやり取り」とでも言うべきものかも知れません。

それでは
こういうやり取りは無駄なのでしょうか。いいえ決してそうでは
ありません。神の御前での真剣なこのようなやり取りの時こそ
実に尊く、そして私達に欠くべからざる一定期間であると私は思います。
従ってここで真に大切なものは「神の御前における私達の願い」である
と言うことが明らかになります。私は結局一体何を得たいのか、要するに
具体的に何をターゲットにして人生を歩むのか、と言うことです。私の
心はどこにあるのでしょう、私の心はあの「キリストそのもの」に
フォーカスされているでしょうか。それとも私は所詮キリストと似て非な
ある特定の「私の良きもの」を求めているだけなのでしょうか。

さて 実のところ実際の信仰は
決して見栄えのするものでも大げさなものでもありません。それは
まるで小さな種がいつの間にか手の間からすり抜け 地に落下する
ようなものと言えるでしょう。それはやはり不思議な命の現象なのです。
無論まずそこには「種を蒔くというあなたの意志」が
不可欠であることは 言うまでもありませんが・・。


さてAさん、以上述べた試みをあなたの意志を用いて事あるごとに、
そして思い出すたびごとにやって見て下さい。「主よ私はすでにあなたと
一つです。私とあなたは共に一本のブドウの木です。
これはあなたの御言葉ですから唯信じます」と。
もしこれを続けるならば、即ちあなたの心が神の御前で 真剣に神の門を
叩き続けるならば、ある時その中の一つが偶然に?ヒットしその一個の
とても小さな、しかし純粋なカラシダネのような「命ある信仰」が発芽し、
そしてその後 そこからある確かな天の現象を生ずるのです。

それではその時 
一体どういうことが起こっているのでしょうか。それはこうです:
当然、物理的にはキリストとあなたは離れています。しかし霊的には
即ち 神の目にはあなたとキリストは既に完全に一つとされています。
従ってキリストにある永遠の真理が、即ち何と復活のキリスト御自身が
今地上にいるあなたとあなたの環境の中にさえ「あなたの時空」である
あなたの肉体を介して顕現されるのです。その際、
永遠と時空の間にある「人には渡りえない深い淵」を繋ぐはしごが
唯一 命ある小さな信頼(信仰)なのです。
しかしあなたがこの経験に一度でも到達することはあなたにとって大きな
励ましとなるに違いありません。そのようにして次の経験は 更に容易に
なることでしょう。あなたはあるコツを掴んだからです。

本来実は 
人から復活のイエスが現れるのはとても理にかなっているのです。
なぜなら あなたも彼も全く同じアダムであるらです。あなたは元々イエスと
完全に一つとなるように 神によって造られているからです。だから
キリストの十字架以来 あなたとキリストは一つとされたのです。
その原因は唯一つ、偉大な神の意志と能力です。要するに
神がそうされたからそうなったのです(Ⅰコリント1の30)。くり返しますが 
しかしそこには 「あなたの信仰」が不可欠です、そうです「恵みと信仰」は
全く不可分であるからです。

「そのやり取り」の後は
あまり自分を見ずに自然に振舞いましょう。そのようにしているならば
フトある時 あなたは自分からキリストが現れるのをかたわらに立って
見ることが出来るのです。即ちあなたからキリストが出現すると言う
「復活のキリスト現象」にある日ある時 あなたはハッキリと気づくのです。
その現象はあなたの努力とは全く無縁です。
しかし確かに あなたの心とは深い関係があるでしょう。

その復活のキリストは
①あなたとはまるで関係ないかのように
②しかしあなたしか分からない方法で(他人が気づくことはまれ)
③あなたの普通の生活の中で、あなたとあなたの周辺において
④「小さな不思議」、あの復活の御業の「再現」を行われ、
そしてその結果 あなたは一人 奥深くひそかな喜びに浸ることが出来、
何と更に「幸せ」はあなたの周囲の人々にまで及ぶのです。それが
「祝福の到来」です。しかしその時 あなたに栄光が帰されることは
決してありません。これこそが真の神への奉仕であり、礼拝です。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

不思議に思うのですが、この時空の法則、例えば物理法則は、信じようが信じまいが、客観的事実として存在し、また個人的にも適用されています。しかし神という永遠をこの時空に下ろしてくるには、つまり実際のキリスト現象を私自身に下ろすには、自分にはできないと完全降伏するとともに、永遠の神の言葉を信じるしか方法はないようです。この時空の法則の適用と永遠の神の法則をこの時空に適用する仕方にはこんなにも違いがあるとは!ただただ驚くばかりです。永遠とこの時空の間には何か目に見えない(当たり前かもしれませんが)淵のようなものがあるのでしょうね。しかし不思議ですね。
紆余曲折、葛藤はつきものですね。しかしこの紆余曲折、葛藤も神から与えられているものとして、十字架に閉じ込められる必要があるのですね。そしてただただ神の言葉を信じることですね。

Mr.Sugar さんのコメント...

信仰はやはり命のもの、人に訪れる

初めての奇跡でしょうね。

この世には無い、霊的な力です。