昨日午後、
小屋に戻りました。山はやはり涼しいです。夜中、目が覚めて
タオルケットの上に上掛けを一枚重ねなければならない程でした。
グッスリ寝て、けだるい心穏やかな朝を迎えております。
今日からまた暫く山の暮らしです。
こうしてぼんやり小屋のロフトのパソコンに向かうと
何か書く気になるから不思議です。
今利根川の家にいる
妻に送るデスクトップパソコン本体のダンボール詰めを終わった所です。
このパソコンの本体、私がパソコンを始めた当時 ある方から頂いた
ものなのですが、私がどうしても持ち歩きの出来るPCが必要になり、
ノートパソコンに切り替えたので要らなくなっていたものなのです。
ところが妻のパソコンの本体が最近壊れてしまって どうしようと
言う事になり今日の運びとなったのです。兄弟手作りのパソコンが
我が家ではこんな具合にとても役に立っているのです。
本当に有難うございました。
実家では
買った中古の軽自動車に妻が喜んで乗っています。(ハイ、 駐車場
とてもうまい具合に完成したのですよ。これも何だかとても不思議な
感じです。)機械音痴の60歳主婦がオートマながら初志一徹
見事免許をとったのには私もビックリ。息子のケンの移動のためにも
これは役に立つでしょう。私も少しは楽になるのかな。
女性がよく乗っているような形の軽自動車だとイヤだなと思っていたら、
妻の方が乗り気でターボのパジェロミニを買ったのです。これだと
山にも乗って行けると私は内心喜んでいるのです。
明日から
「熊に主意」のケンちゃん家族が泊まりに来られます。どんな 2泊3日に
なるのでしょう。夜クワガタが明かり目がけて飛んで来てくれるかな。
葛尾川で釣りのいいポイントが見つかるかな。
皆で五十人山に登ってみるのもいいかも知れない。
1 件のコメント:
下界は昨日も今日もさほど暑くありませんでした。さて、礼拝、拝むの背後には何があるかと考えますと、やっぱりそこには感情が潜んでいるのだと思うのです。脳内のドーパミンを分泌させようとする報酬回路を回したいのだと思います。これが肉の本質なのではないのでしょうか。思いと感情はこの回路でがっちり結びついています。主というお方を求める礼拝、臨在感を求める礼拝は、以外と落とし穴があると思います。我々に欠けているのは、やっぱり信仰だと思います。キリストはぶどうの木であり(幹ではありません)、私は枝である、私はキリストの中に在る、私はキリストと一つであるということを信じる信仰なしに、主を求める礼拝を一心不乱にやって主の臨在を感じても、もしかしたらそれは脳の報酬回路を回しているに過ぎないのかもしれません。心がどんなに乾いた状態になっても、どんなに気分が落ち込んでも、思いと感情と結びついていない意志を使って、「私は今、何も感じることができません。そして信じることもできません。だけど、あなたの言葉が、私とあなたは一つですと言うのですから、信じられないけど、それを信じます。」と言い続けるしか方法はありません。暗いトンネルの中にいるときこそ、主の臨在感を求めるのではなく、主の信仰を求めるべきだと思うのです。神はそれを願っているのだと思います。
明日そちらに行きます。わが二人の息子でかなり山小屋はにぎやかになると思いますが、よろしくお願いします。
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