2011年2月2日水曜日

神の静かな力

「私は、律法に対して死にました。」(ガラテヤ2の19)
これはパウロの言葉です。その時、彼は何と言う自由を
覚えていたことでしょう。

しかし、更に私は
「私自作の律法、私の決心、壁に貼り付けた決意
(即ち私設立の義、人の義)」にさえ
完全に死んでいると信じているのです!
それら総てに対して私達は既に死に、のみならず 
墓の中に葬られ 今それらとは全く関係ない
完全な自由の中にいるのです!

あなたが そのようにして何もかもを忘れ
全く人としての原点に戻り
「神のために何かをしなければ」という観念からさえ 
完全に解放される日、
総ての「ねばならない」から解(と)き放たれる日
即ちあなたが 何ものにも束縛(そくばく)されなくなる日、

あなたは 
「とても静かな神の力」に気付くでしょう。
この気づきには極めて価値があります。
その日初めて「神を信じると言う意味」がとても明らかに
なるからです。

(そうでなければ本当の意味で 人は神にだけ
100%の感謝をささげ、賛美することはあり得ないでしょう。
人はどこかで人や自分を賛美するからです。)

その力はあたかも 長い冬が去り、時いたってある日
ある不思議な力が、枯(か)れ木の中で 生命の営みを開始し、
日一日と静かにその復活の力を表すかのようです。
その命の静けさはとても美しいです。何故ならそれは
死からよみがえった「神そのものの美しさ」であるからです。

私達が信じている神とはこのような神です。だから
神は「あなたの手助け」など少しも望んでおられません。
むしろ神は
「あなたの力」を否(いな)み退(しりぞけ)るように
働かれるでしょう。

神は あなたとあなたの家族の為に 
死から復活した命の方法によって
その総てに超越した力を しかし極めて美しく静かに
あなたのゴクありふれた生活の中において
表現することを望んでおられるのです。

アーメン!
主よ私達は
そのようなあなたの力を信じ経験したいのです。

シュガー

4 件のコメント:

鳩 さんのコメント...

「私自作の律法、私の決心、壁に貼り付けた決意
(即ち私設立の義、人の義)」

「神のために何かをしなければ」


まったもって、この「肉」は厄介なモノです。自分で対処を試みると、ますます状態が悪化してしまう…。蝮の末、白く塗った墓、偽善者とは、まさに「私」そのもの、パリサイ人を見たければ鏡を見ろ、なのです。

ただ主を讃えます。
「私」ではない「御子の信仰」ガラテヤ2:20で生かされていること、「私」と「世」から目を離しイエスを見ることへブル12:2、そして再び主が来られる約束は、なんと甘美なことでしょうか。

天の故郷への憧れは日増しに強くなります。肉体を脱いでの礼拝は、どんなに素晴らしいのでしょうか。ワクワクしてしまいます。

Mr.Sugar さんのコメント...

アーメン そのとおりです。

この神の敵の支配下にある 
混乱したこの世と自分自身を見るにつけ
私達の慕うべきお方は ただ神御自身であり
私達の願いは このお方との結合です。

ああ主よ、私達を憐れみ 
あなたの御心の中にとらえてください。

JOY さんのコメント...

シュガーさん

御言葉の分かち合いをありがとうございます。この記事を読みながら、

「主の御心のままになりますように・・・」と主に言うことは、

「自我はキリストと共に十字架に死にました。」
と、告白していることでもあるのかなと、ふと思いました。

Mr.Sugar さんのコメント...

感謝です。
きっとそれは
主からのJOY姉妹への語りかけ
なのでしょう。

ですから その語りかけの中で
日を過ごされたらすばらしいと
思います。
そこにも主と私達との交流があると
信じます。

確かに、みこころのままに、と私達が
心から言う場合
自分を放棄することなしには 
その実際は存在し得ないでしょうね。

ですから その言葉を主に向かって
私達が発する時に 私の身の上にも 
主の十字架が働いているはずです。


多分 明日朝、山に向かいます。