2011年1月31日月曜日

あるメールから1

この前
私たち夫婦は、とても良い休みのときを過ごしました。
お風呂に行ったり、買い物したり、大したことはしていない
のですが、とても楽しいときを過ごしました。

今朝、上のようなメールをいただきました。
この若い夫婦との それまでのやりとりから 私はこのメールに
こめられたある深い意味と喜びを知ることが出来ました。
それで次のような長い私の返信となってしまったのです。


サマリヤの女が出てくるヨハネ4章は
「礼拝とは何か」を私達に見せています。

ヨハネによる福音書4章は 礼拝とは
先ずは「あそこでも この時間でもない」ということを見せ
次に のどが渇いて「水を飲ませてください」と言うような
ありふれた人間の生活が「礼拝の下地」であることを
見せているようです。

しかし、最も肝心(かんじん)なことは
そこにイエスが介入されていることです。
イエスが その人の生活の中に確かにおられるならば、
そのありふれた人の生活は直ちに礼拝の場面となると
聖書は告げているのではないでしょうか。(余談ですが、
イエスみずから予定を変更してまで?このサマリヤの女に
会いに来られたのかも知れません!4の4)

しかし初めのうちは 私達がよくするように
女の「礼拝に関する宗教的な固定観念」が表れます。
この段階における彼女は まだアタマの世界で右往左往
しているだけであり 真理は全く見えていません。

もう一度 余談ですが 聖書で女と言うとき
宇宙における唯一の男子である神に対する人、
を表すことがよくあります。だからこのサマリやの女は
私達の代表です。

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