「キリスト者の霊的学びにおける到達点」には
明確な神のみこころがあり、その目標が揺らいだり、
変更されたりすることはあり得ません。
キリスト者達に対する神の働きの特徴は
その目的の明確さ・手順の厳格さ、
そして美しさにあるからです。
しかし、それへと至らしめる
一人一人の兄弟姉妹への神の導きには
一つとして同じやり方はあり得ません。
この時代、神はキリスト者を一くくりにし、
大きな教室で 画一的に導くようなことは
決してされません。
なぜなら私達の
「命の成長の度合い」を初めとした様々な状況は
一人一人が著しく異なるからです。
そのように著しく異なるキリスト者を
正当にしかも美しく導く極めて偉大な能力は
ただ神のみが所有し得るものです。
ですから、霊的成長の為にキリスト者が
一人の人間、或いはある特定の人間達の
指示に従って一斉に行動するなどは決して
正常な姿であるとは言えません。
確かに言えることは 神は先ず
「私達一人一人が今達し得ている所」を良くご覧になられ、
次におのおのの内側に ある霊的な関心、興味、憧れを
生じさせることによって
今その人にとって必要な「ある神の真理」の
①啓示と②経験に 導こうとされることです。
そうやって神は私達を順次 前進させられるのです。
その神の導きは
総ての真に新しく生まれたキリスト者に対して
真理A→B→Cから開始され、いずれ必ず→X→Y→Z の
①啓示と②経験へと至るでしょう。
私達が 多くの証人や先人達のように この時代、
即ち この肉体に留まる一定期間において もしも
・・Y→Z にまで到達できるならば
それは何と幸いなことでしょう。
とは言え
ここで私達が確認しておきたい極めて大切な事実は
私達が霊的学びの過程に置いて獲得して行くものは
初めから終わりまで「ただ一つの事物」であり
その事物とは「キリストというお方」以外の何物でもないと
言うことです。何故ならキリストこそ
A(アルファ) でありZ(オメガ)であるからです。
(黙示録1の8)
今大切なのは
その神の働きかけに対して「私がどう応じるか」です。
その「応じ方」(今の私の応じ方)によって 私の
「この時代における」霊的成長のスピードと
「この時代における」私の到達点が 決定されてしまうとすれば、
それは極めて厳粛なことではないでしょうか。
このような神ご自身だけが
「教会」(エクレシア)における
唯一人の先生であり、父です。
*
「それはそれとして、私達は既に達している所を基準として、
進むべきです。」(ピリピ3の16)
0 件のコメント:
コメントを投稿