2010年11月29日月曜日

今達し得ている所に従って

「キリスト者の霊的学びにおける到達点」には
明確な神のみこころがあり、その目標が揺らいだり、
変更されたりすることはあり得ません。
キリスト者達に対する神の働きの特徴は 
その目的の明確さ・手順の厳格さ、
そして美しさにあるからです。

しかし、それへと至らしめる
一人一人の兄弟姉妹への神の導きには
一つとして同じやり方はあり得ません。
この時代、神はキリスト者を一くくりにし、
大きな教室で 画一的に導くようなことは
決してされません。

なぜなら私達の
「命の成長の度合い」を初めとした様々な状況は
一人一人が著しく異なるからです。
そのように著しく異なるキリスト者を 
正当にしかも美しく導く極めて偉大な能力は
ただ神のみが所有し得るものです。

ですから、霊的成長の為にキリスト者が 
一人の人間、或いはある特定の人間達の
指示に従って一斉に行動するなどは決して
正常な姿であるとは言えません。

確かに言えることは 神は先ず
「私達一人一人が今達し得ている所」を良くご覧になられ、
次におのおのの内側に ある霊的な関心、興味、憧れを
生じさせることによって
今その人にとって必要な「ある神の真理」の
①啓示と②経験に 導こうとされることです。
そうやって神は私達を順次 前進させられるのです。

その神の導きは 
総ての真に新しく生まれたキリスト者に対して
真理A→B→Cから開始され、いずれ必ず→X→Y→Z の
①啓示と②経験へと至るでしょう。

私達が 多くの証人や先人達のように この時代、
即ち この肉体に留まる一定期間において もしも
・・Y→Z にまで到達できるならば
それは何と幸いなことでしょう。

とは言え 
ここで私達が確認しておきたい極めて大切な事実は
私達が霊的学びの過程に置いて獲得して行くものは
初めから終わりまで「ただ一つの事物」であり
その事物とは「キリストというお方」以外の何物でもないと
言うことです。何故ならキリストこそ 
A(アルファ) でありZ(オメガ)であるからです。
(黙示録1の8)

今大切なのは
その神の働きかけに対して「私がどう応じるか」です。
その「応じ方」(今の私の応じ方)によって 私の
「この時代における」霊的成長のスピードと
「この時代における」私の到達点が 決定されてしまうとすれば、
それは極めて厳粛なことではないでしょうか。

このような神ご自身だけが
「教会」(エクレシア)における
唯一人の先生であり、父です。


「それはそれとして、私達は既に達している所を基準として、
進むべきです。」(ピリピ3の16)

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