人間アダムの罪の処罰は 当然
人間アダムの上になされなければならない。
もしも仮に
イエスに罪があったとするならば、
彼は一人 自分の罪の贖いをするのみであり
誰一人救われることはない。
そしてもしも
イエスが単なる「純白な人」であっただけならば
彼は 他のもう一人の人の罪の贖いには
なれたのかも知れない。(しかしそこに復活はあり得なく、
いまだに救いは存在しない)
*
しかしイエスが
真に神の子であったとするならば
彼の無限の尊さと無限の価値の故に
全人類の総ての罪を贖っても 更にありあまる
無限のおつりが来る。
要点は彼の無限性にあり 無限性は神のみに存在する。
人の子となられた無限な神の子は
あの日あの木の上で 彼の上に
罪深いアダムという有限な全人類と
アダムに付随(ふずい)する有限な総ての物質世界を
着られたのである。
彼の贖いが 父なる神の心にさえ全き満足を与え得る
完全の完全であったことは 言うまでもない。
5 件のコメント:
あの日あの木の実で死んだ
アダムの罪を
あの日あの木の上で死んで
イエスは支払い
今日もその木に接ぎ木され
私は共に死に、共に生かされている。
なるほど
エデンの木、
十字架の木、
ブドウの木。
木を見るのが好きです。
最近は「主よ 枝は木です」と
祈っています。
この祈り 実に効果的です。
ふーん。
なるほど
確かに
木は枝ではないが
枝は木ですね。
なるほど、なるほど
そうです、
間違いなく長野県は日本です。
更に、植物 ブドウの木の場合は
一細胞の中にさえ、
木全体が含まれていると科学者は言います。
更に「今日のイエス」は
電気屋兄弟を指して、彼は私である、
と言われた事実を
パウロは3回も力説しています。
(使徒9の5、22の8、26の14)
兄弟 この事実(の甘さ)の中に
今日一日留まって見て下さいませんか。
(ヨハネ15の7)
(の甘さ)は nakereba,
kakutemo iidesu.
丁寧なご説明ありがとうございます。
では、
がんばらないで(私はときどき”すぎる”ので)
静かに私はその祈りと
神の不思議な力を信じみさせていただくことにします。
枝は木です。
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