何と 30年前の
「わが家のある日」の録音テープが出てきた。
母、秋田のおばさん、そしてジュンのかわいい声が!
テープの中で三人は確かに生きてここにいる。
30年前のリアリティが今、正にここにあるではないか。
しかし、
「現実には」この三人は既に故人である。
そうすると真にリアルなものは
今のこの瞬間のものだけなのであろうか。
しかし次に それではこの瞬間のものであれば
本当にリアルなのであろうか、
と言う疑問が出てくる。
総ての物質と人の一切の営(いとな)みは間もなく
変化・変質・腐食(ふしょく)の中で暗黒の死の中へと
吸い込まれてゆく。これほど確実な現実はない。それにしても
真のリアリティとは「その程度のもの」なのであろうか!
確かに言えることは この時間の中にあるものは
どんなものであろうと 私の手の中に確実に永遠に
握(にぎ)れるものなど何一つない ということである。
*
「最後のアダムの血肉」という物質において、
総ての物質の入れ物である時空さえも
神は「あらかじめ」それらの総てを一切黄泉(よみ)に送り、
しかし三日後 何と
時空と死と一切の制限を超越(ちょうえつ)した
「永遠という世界」を
復活した命というイエスの霊の中で
総ての人に 無代価で付与されるという
大いなる神に ただ感謝をささげたい。
*
「テープの中に」
母、おばさん、ジュンのリアリティはない。
しかし、
「そのイエスの中に」
三人のリアリティは確実に存在している。
3 件のコメント:
ただ一言、アーメンです。
そのリアリティを共有できることを願います。
兄弟、もう共有してますよ!
「総てはあなた方のものです。パウロであれ
アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ
命であれ、死であれ、また現在のものであれ
未来のものであれ、総てはあなた方のもの
です。」(1コリント3の21,22)
あ、そうですね、感謝です!
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