この過去数ヶ月間、
これから私が語りたいと思う柄沢兄弟の家で起こった様々なことは、
私達の記憶にも留めておくべきことではないだろうか、と感じております。
新約聖書によると、二千年前キリスト者達は決して教会堂に集まったのでは
なく、日常生活の中、家々で集まりました。ですから「家」と言うものには、
主からの大切な深い意味あいが隠されている、と思われます。
おなじみの使徒行伝16の31「主イエスを信じなさい。そうすれば、
あなたもあなたの家族も救われます」において「家族」と新改訳聖書で
訳された原語は何と、ただ「家」(house)です。だからこれを直訳すれば
「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家も救われます。」
となるのです。ですから、ここでの意味あいは、今日私達日本人が想起する
「家族」に留まらず、言わば「その家に付随している人々」をも
意味していたことは明らかでしょう。現に、同意語として
32節では「家にいた者」となっております。
(ですからここに、二千年前のエクレシアにおけるキリスト者達の
日ごろの姿、あり方が暗示されてはいないでしょうか。
確かに、彼らは家々に集まっていたのです。)
聖書の記述によれば、その家の一人の人(主人)が経験した
驚くべき救いは、たちまちの内に、その家に付随する
総ての人々に極めて大きな影響を与えました。
この僅か4か月の間、柄沢登兄弟の家に、奥様・良子さんの
お姉さん達は当然のこと、他の人々も出入りをしたのです。
確かに、登兄弟が主を真実に受け入れた日からと言うもの、
「目を見張るような」と言ってもよいほどの、キリストの
素晴らしい救いと、神の深い祝福が一人登兄弟に留まらず、
「この家全体にも」訪れていたことは実に明らかです。
私は少し大げさなのでしょうか、
この数ヶ月の間、登兄弟の家で起こった一つ一つの出来事は、
「主がいかにエクレシアを愛しておられるか」と言う「これから始まる
壮大な物語」の序曲のようにさえ、思われるのです。
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