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そのためには、「無数の日々の礼拝」
(交わりと祈り、そして賛美と感謝)は
どうしても欠かすことの出来ない要素です。
しかしながら
その真の礼拝の背後には必ず、
敵との戦争が存在しなければなりません。
ですから「今の時代」
即ち「ダビデの時代」における礼拝はどうしても
剣を帯び、甲冑をまとった
「敵の前の宴(うたげ)」「荒野の食卓」(詩23)
でなければならないのです。
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そのような激しい戦闘を伴った宴が
私達の現実となる日、即ち私達がダビデに従い
流血を伴う無数の戦いを経過する時、
神の義が支配するソロモンの絶対的な王国へと、
真に時代が転換する可能性があるのです。
「見よ、真のダビデがここにいる、
ソロモンより勝った者がここにいる!」
*
「真のダビデ」とはエクレシア時代における王キリストです。
「ソロモンより勝った者」とは次の千年期における王キリストです。
キリストだけがいつの時代においても「ザ・王」であり、「ザ・主」です。
*「流血」とはキリストと共に十字架に付けられて私の「天然の命」
魂の命を注ぎだすこと、即ち「私の旧創造」を死に渡すと言うことです。
それによってのみ、私達は戦いに勝利する可能性があります。
ただし、
この「流血」は神の子キリストにおける贖いの流血ではありません。
当然のことながら絶対的に私達罪人にその分はあり得ません。
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