O兄弟:
使徒の働き14章19~20節を読みました:
私の場合、パウロと同じようなことはまだ兆候も見えません。
時は神様のものですが、それと同時に「このこと」が神様から来たもの
なのか、自分の大脳の中の働きによるものなのかは識別できないので、
どうなるのか期待だけしています。主からのものであるならば
成就するように、とそれだけを祈りました。
*
Sugar:
兄弟は確かに「現在の時代における最も重要なポイント」を
探っておられると知り感動させられました。
そうです、現在私達の間でも、パウロの時代と「同質のもの」が、
私達の周辺にも日常的に起こって来ないとすればそれは
どこか私たちが間違っているに違いないのです、スケールの差は
やむを得ないとしても・・。それとも「聖霊の質」が今日では
低劣化してしまったのでしょうか!?
「神様から来たものかどうか」の見極め:
これが正に今日、キリスト者の間で大混乱を呈しているものです。
敢えて言えば、サッパリ検討が付かないのです。もっと言えば
今日行われているものは大部分聖霊でない「ある霊」が行っている
とさえ言えると思います。これは明らかに極めて深刻な事態です。
かの日「地上で私が行ったことが総て、全く聖霊とは無関係であった」
と言う悲劇にだけは決して遭遇したくはない、と心から思うのです。
*
O兄弟:
メールを感謝します。
今、退院後の検査から帰ってきました。
入院中、重症の心不全になり、肺に水がたまって、深呼吸しようと
しても少ししか空気が入らないような時もありましたが、
今日の検査結果は、だいぶ良くなり、肺の水は全くなく、心不全も
軽度となり、家の周囲を散歩してもよいことになりました。心電図も
心配なしとのことです。担当医からは「疲れたら休息をとれば
よいですよ。」ということでした、まだ、散歩距離は500m位ですけれど。
しかし、退院後今日までは、家から全く出れなかった
のですからとても嬉しいです。
ウォッチマン・ニーのコピーの<直覚>について読みました。
私の状態は「理解する」>>「知る」という状態だな、と思いました。
「知る」という体験も多くありますが、「魂によって理解する」
ということがはるかに多かったな、と思います。
・・・報告と感謝まで。
☆
注釈:
少し詳しく述べると次のようになります。
聖書で「知る」とは神の啓示から、霊の中で聖霊によって神の御旨を
知ることです。この時点においては思い・頭脳の関与は全くありません。
それには一方的な神からの啓示を待たねばなりません。
次に一定時間を費やして、或いは瞬時に、直覚を通して「知った」
内容を思いを用いて理解するのです。
換言すれば、直覚によって「知った」ことを、次に思いを用いて
理解、確認するのです。この段階に至ってキリスト者は初めて他人に
説明も出来るのです。(だから思いは極めて大切です)しかし霊の中で
「知る」があって、次に初めて思いを用いてそれを理解出来るのです。
先ず「知る」がなければ「理解する」はあり得ません。この優先順序は
動かし得ないものです。あくまで霊の中の直覚が主導なのです。
繰り返しますが、それ故に啓示によって「知って」はいるが、その人自身
まだそれが何のことなのか理解出来ないし、人に説明も出来ない
と言うことはあり得ることなのです。
3 件のコメント:
御言葉が神からのものなのか、自分の思いなのか、それともサタンからのまどわしなのか、見分けられます。聖書には「羊は羊飼いの声を聞き分ける」とかかれているからです。私たちのうちには、全てを教えてくださる聖霊様がおられますし、神の完全なる啓示の書である聖書があるからです。 時間をかけて、主に聞き続けることです。主は必ず、納得させてくださいます。主と会話をしながら、「ここがよくわかりません。」とか、「ここの御言葉は反対のことを言っていってますが・・・。」などと。まるで独り言を言っているようですが、主に尋ねているならば、主は隠れたところで、ちゃんと聞いていてくださいます。確かに主からの声ならば、平安と確信が与えられ、誰になんと言われても、そのようになるという確信と喜びがあり、心のなかから喜びがふつふつとわいてくるでしょう。しかし、そうでないなら平安も喜びもありません。大事なことは、ある御言葉が気になりだしたら、かならず主のところに持って行き、聞き続けることです。主はこの「かかわること」を何よりも喜んでくださいます。是非、ためしてください。 その価値は充分にありますから。
全くその通りだと思います。
聖霊は私の最も身近な「お方」・人
なのですから、当然と言えば当然
なのでしょう。
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