私の落胆、不機嫌、不調によって
「太陽が東から昇る事実」に変化が生ずるだろうか?
ましてや「神の達成」に。
私の内にある復活のキリスト、
その存在の大きさとその実質に比較するならば
私などと言う存在は・・・
そうか、だから十字架で始末されたんだ。
キリストがご自身を大きくせられ遂に私にまで到達された、
或いは 私を飲み込まれた!
私の人生、私の生活、私、私、私の、私の・・
それは一体何?そんなものは無いのではないのか。
あるのはただ キリストの人生、その死、復活、昇天と御座、
ただその中に溶解させられた「私の」人生。
私の運命とはキリストの運命なのだ!
イエスと父の一つの度合い と 私とイエスの一つの度合い、
そこに果たして差がありや?
キリスト者にとって たやすいことなど一つとして無い。
例えば、ただ外を黙って歩くことさえ相当難しい。
私はまだエリシャのようには歩けない。
人の生活は実に煩雑で下らないことの連続、
しかしその実に下らないことの一つ一つを
イエスの死と復活の中で通るなら
それはたちまち宇宙最高の価値となる。
3 件のコメント:
どこまでいっても 何があっても 一点キリストなんですね。
私は バカの一つ覚えのように この言葉を
中心軸にすえています。
私も一年ぐらい「その中せんもん」
と言う時期がありましたね。
私の周囲の諸々の事象が
その一点の周りをゆっくりと回りだし
どんどん変化して行くのが見えました。
多分その時期の最初の瞬間から
キリストが私の中で1点となられた。
☆
総てのキリスト者にその1点があり
その無数の1点が天の1点と繋がっている。
天から落ちる池に落ちる
無数の雨粒のように
それらはとても美しい一幅の
水面の絵を描く。
そうなんですね。
すべての事象というものは 一点のお方の周りを回っているのですね。そうなると 恐れとか不安とか思い煩いは ぶんぶん 飛ばされていきますね。
無数の一点の繋がり(フッフッ 真珠のネックレスみたい) これがキリストの体。
美しい一服の絵が ○○日にも描かれることを楽しみにしつつ・・
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